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九戸城
【くのへじょう】


旧国名:陸奥

(中世)戦国期の城郭名。糠部(ぬかのぶ)郡二戸のうち。戦国武将九戸氏の本城。白鳥城・宮野城とも称される。九戸政実が九戸長興寺を離れて,この城を本拠地と定めたのは永禄11~12年頃。鹿角方面の戦功によって二戸の地を給せられたことによると伝える。それ以来,九戸氏の勢力は四隣に及び,三戸の南部宗家とも対抗するほどになった。ただし,九戸政実の4代前の光政が明応年間に当城を築いたとする説もないではない。天正19年九戸合戦によって当城は落城,九戸政実は栗原郡三迫(さんのはさま)で処刑された。政実なきあとの当城には南部信直が入り,三戸より本拠地を移して,城名も福岡城と改めた。九戸城の位置は福岡盆地の中央(二戸市),馬淵(まべち)・白鳥・猫淵の3河川に囲まれた要衝の地。白鳥川縁に本丸・二の丸・三の丸・石沢館・若狭館などが並ぶ。本丸は高台の西北隅。東西120m・南北80m。崖面を除く後背には石垣を含む土塁と空濠を巡らす。東面の追手門には枡形が残る。本丸の東・南を囲む二の丸には土塁を巡らす。二の丸北東の搦手門跡には,落城の際に焚き殺された将兵とその妻子らの塚がある。三の丸は住宅地となり,本丸を隔てる濠跡を残すのみである。石沢館(別名を外館)・若狭館などの外郭はともに,後詰の郭とみられる。九戸氏の勢力が増すにつれて,本丸から二の丸・三の丸,さらには外郭部へと当城の規模も拡大し,連郭式の平山城として発展した様子が察せられる。ただし,外郭を除く本丸・二の丸・三の丸などは,南部氏による全面的改修を受けており,今は,中世そのままの景観は残らない。深田濠を隔てた南側の松の丸は南部信直の居館とされる。近くには武家屋敷の在府小路もあった。九戸城全域の規模を総括的に示せば,東西850m・南北650m。糠部郡はもとより,北奥羽でも屈指の大城であった。現在は国史跡となる(城郭大系2)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7014414