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本法寺
【ほんぽうじ】


京都市上京(かみぎよう)区本法寺前町にある寺。日蓮宗本山。叡昌山と号す。本尊十界大曼荼羅。開基日親。「日親上人徳行記」(大日料8-23)には,応永34年日親21歳の時洛陽一条戻橋において初めて開講した際「欲営建精舎于中華,以為一家之本道場」としたが果たせず,数十年後「建立一寺,号叡昌山本法寺」とある。同記によれば,はじめは四条綾小路,のちに一条堀川に移したという。創建の年次は未詳だが,寺伝によれば永享8年とし,おそらく永享年間には開創されていた。永享11年に日親は足利義教に対して諫説を行い,日蓮の「立正安国論」になぞらえて「立正治国論」を著したが,翌12年2月には捕えられて禁獄。このころより不受不施を主唱する当寺は,洛中の法華寺院の代表的存在となった。寛正元年に日親は再度捕えられ,同年閏9月3日「法華堂本法寺以罪科至被破却」(蔭凉軒日録)として破却された。「新撰長禄寛正記」(群書20)にはこの年11月8日「千葉介が許ヨリ法花ノ僧徒日親上人ト云法師ヲ召進ス」とあり,この時日親を評して「法花経ヲ談ジ諸宗ノ仏法ヲ嘲リ及宗論。ソノコロ無双ノ悪比丘也」としている。同記によれば寛正4年8月18日の大赦で許された。のち三条万里小路に再建したと伝える。日親は文明16年に「本法寺方式」(大日料8-19)を著し,文明19年には「本法寺縁起」(大日料8-23)を記して自らの事蹟,法華宗の興隆を期し,長享2年9月17日に死去した(日親上人徳行記ほか)。天文法華の乱の時に一時和泉国堺に難を逃れ,天文11年11月の後奈良天皇による法華宗二十一か寺洛内還住の勅許を受けて一条堀川戻橋に再建された(両山歴譜)。天正18年には豊臣秀吉の京都の町整備に伴い現在地に移転。天明8年の大火で焼亡し,現在の建物はこれ以降のものである。寛永年間の「本法寺末寺帳」(大日本近世史料)によれば全国に34か寺の末寺を有し,江戸期には11石の朱印地を有した。江戸期には一致派の法華宗寺院に属している(京都大概覚書)。寺宝に絹本著色蓮花図,長谷川等伯・本阿弥光悦関係資料などがあり,すべて国重文。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7145190