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大坂城
【おおさかじょう】


錦城・金城ともいう。戦国期~江戸期の城郭。大阪市東区大阪城に所在。当城のある上町台地は,低湿地で占められている大阪平野中,ただ1か所の高台に位置している。東は猫間川・旧大和川,北は淀川に囲まれた要害の地で,西は海に面して,瀬戸内海に通じる交通の要衝でもあった。そのため,この地には古代の難波宮,中世に石山本願寺,近世には豊臣・徳川両時期にまたがる大坂城が所在し,歴史上重要な役割を果たした。大坂城の原初は,戦国期に浄土真宗(一向宗)の総本山であった石山本願寺である。本願寺中興の祖蓮如は,明応5年「摂州東成郡生玉之庄内大坂」に坊舎を建立した(御文章)。これが石山御坊であり,のちの石山本願寺である。蓮如がこの地に着目したのは,摂津・河内・和泉の3国における浄土真宗中心寺院の中間に所在し,布教の拠点として有利な位置にあるとともに,交通の要衝として水運による経済的発展が期待されたためと思われる。当時,浄土真宗の総本山は山科本願寺であったが,天文元年8月23日六角定頼と京都の日蓮(法華)宗徒の攻撃を受け,灰燼に帰した。このため,10世証如は翌2年石山御坊に移り,以後ここを本山とした。当時本願寺は細川晴元と京都及びその周辺で抗争を繰り返していたため,証如は石山本願寺の寺域を拡張し,専門技術者の城作りを招くなどして濠をめぐらし塀を設けて石山本願寺の城郭化を進め,寺内町も形成された。石山本願寺は「大坂之城」とも呼ばれ(多聞院日記/続大成),浄土真宗の本山であるとともに,大規模な中世城郭としての性格も備えていた。また,その寺内町は法主を領主とし,坊主衆・寺内衆を家臣とし,町衆を町人とする一大城下町でもあった。このような状況の中で,畿内近国を中心として発生していた一向一揆の中心である石山本願寺と,天下統一を目指す織田信長との対立が激化し,元亀元年から前後11年にわたる石山合戦となった。この間,石山本願寺は,加賀から城作りの技術者を招いて城郭としての設備を一段と強化した。石山本願寺城には,それぞれ濠に囲まれた本丸と二の丸の2つの曲輪があったと思われる。また「信長公記」が「大坂もこう津・丸山・ひろ芝・正山をはじめとして端城五十一ケ所申付け楯籠り,構への内にて五万石所務致し」と伝えるように,本願寺の寺内町を中心とする周辺地域には多くの支城が構築されていた。しかし,長期にわたったこの合戦も,天正8年石山本願寺城が開城して終結する。この際,寺内から発した火は石山本願寺全域を3昼夜にわたって焼き尽くしたという(本願寺文書・信長公記)。石山本願寺の所在地については,現在の大坂城の地とも,その南の法円坂付近ともいわれるが,詳細は不明。なお,大坂城二の丸内に,「蓮如上人袈裟掛けの松」の伝承地がある。石山開城後は,信長の家臣丹羽長秀などが城番として城を預かっていたが,天正10年6月本能寺の変で信長がたおれたのち,実質的な権力を継承した豊臣秀吉は,翌11年,天下統一の拠点として大坂築城を開始する。工事は全国から2~5万人の人夫を動員して行われ(日本年報),15年余にわたって継続的に行われた。同14年4月には天守閣が完成,同16年4月には一応工事が終了したが(多聞院日記/続大成),文禄3年から工事が再開され(駒井日記/集覧25),慶長3年まで続けられた。こうしたなかで進められた労働力の組織化や能率化は,わが国における城郭の縄張り(平面プラン)や構築技法の上にも大きな変化を与えた。また,秀吉による大坂築城や伏見築城にあたって実際に工事を行ったのは,秀吉支配下の各国の大名たちであり,天正18年秀吉による天下統一ののちには,これが全国の大名に拡大された。このような各種の工事を大名に請け負わせる方式は,のちに江戸幕府が江戸城や大坂城修築にあたって行わせた方式の先駆的なものである。城の縄張りは,本丸・二の丸・三の丸・惣構えからなり,本丸には外観5層,内部9階建ての金箔で飾られた豪華絢爛たる天守閣がそびえたという(大友史料・日本年報)。また築城の過程で形成された城下町も繁栄し,大坂は天下人の本拠地として,また政治・経済の中心地として意識されていく。しかし,慶長3年に秀吉が没し,同5年の関ケ原の戦ののち政権は徳川家康が掌握,秀吉の遺児秀頼は摂津・河内・和泉65万7,000石余を領する1大名に没落した。慶長19年・元和元年に起こった大坂冬の陣・夏の陣で当城は落城,豊臣氏は滅亡する。昭和34年大坂城本丸のほぼ中央部の地下約10mの土中に,南面して東西につながる野面積みの石垣が埋没していることが確認され,当時の大坂城は,現在よりも約10m低い位置に構築されていたことが明らかとなった。その規模は,現在の大坂城の約5倍の面積を有していたと推定されている。また,大坂落城後に家康がその焼跡を検証させたところ,金2万8,000枚,銀2万4,000枚が発見されている。豊臣氏を滅ぼし,名実ともに実権を握った家康は,戦後処理のため松平忠明を大坂に入封させる。忠明は旧大坂城の本丸・二の丸を城地とし,三の丸を市街地に開放して,城下町の還住,伏見町の移住,寺院・墓地の集中移転などの政策を行い,城下町の復興を行った。元和5年7月忠明が大和郡山に移封されたのち,大坂は幕府直轄地となった。幕府は,元和6~9年・寛永元年~3年・同5~6年の3期にわたる当城修築工事(実質的な新築工事)を,助役普請として主に西日本の外様大名65家に命じて行わせた。こうして再建された大坂城は,本丸・山里曲輪・二の丸・外曲輪の4曲輪よりなり,縄張りの面では旧大坂城に比べ縮小されているが(大坂城普請丁場割之図),巨大な石垣や広大な濠などは旧城をはるかにしのいでいる。以後当城は,明治維新に至るまで幕府権力の象徴として,西国大名を睨視する役割を果たした。その実質的な役割を担う大坂城代は,幕末まで72名が任ぜられている。寛文5年,落雷により天守閣は焼失し,以後は再建されなかった。その後幕末に至って外国船が日本近海に出没し,通商を求めてくるようになると西日本の中心地である大坂城の重要性が再認識され,幕府は天保14年大坂・堺・兵庫・西宮の富豪155人に御用金を賦課し,これをもって弘化2年から大坂城の修理が行われ,嘉永元年に完成した。しかし,慶応4年の鳥羽・伏見の戦で長州藩の攻撃により大坂城は灰燼に帰した。この事件は幕府権力の失墜を物語るものであり,近世社会の終焉を意味していた。明治新政府が誕生すると,当城は城郭としての役割を終える。しかし,城内には大阪鎮台の本部が設置され,さらに明治21年第四師団司令部へと引き継がれ,第2次大戦まで陸軍の官衙としての役割を果たした。現在,当城は特別史跡に指定され,史跡公園となっている。その遺構のうち特筆すべきものは,高大な石垣と幅50m以上に及ぶ濠である。また,約130tの重量と推定される蛸石をはじめとする巨石は,見る者の眼を驚かせる。高石垣にみられる勾配は,石材を規格化した結果生まれた新しい技法で,大量生産が必要となる元和・寛永年間に顕著にあらわれる築城技術の特徴を示している。建造物としては,大手高麗門・大手多聞櫓・千貫櫓・乾櫓・煙硝蔵などが残り,それらはすべて国重文に指定されている。昭和6年には天守閣が復興され,極楽橋・青屋門も第2次大戦後再建された。現在の遺構はすべて江戸期のもので,豊臣時代の遺構は全くない。しかし,近年本丸地下から豊臣時代のものと推定される石垣が発見され,また旧三の丸周辺でも豊臣時代の遺物が発掘されている。こうした遺構・遺物に対しても,「豊臣時代大坂城本丸図」や「僊台武鑑」所収の「大坂冬の陣配陣図」をはじめとする絵図類の検討を含めた総合的な調査が期待され,一部その成果があらわれてきている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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