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別府温泉
【べっぷおんせん】


別府市の東南部の温泉郷。国鉄日豊本線別府駅を中心に広範囲にひろがる旧別府村の狭義の別府温泉をさす。中核は西法寺(さいほうじ)前を南北に通じる街道筋が流川(ながれかわ)を横切る所で,石垣原(いしがきばる)扇状地の扇端部にあたる。朝見(あさみ)川に沿って走る朝見川断層の北側の浜脇(はまわき)―観海寺(かんかいじ)―堀田(ほりた)の温泉脈をほぼ南縁とし,境川(さかいがわ)をほぼ北縁とし,標高約40mを西縁とする範囲にある。浜脇―観海寺―堀田の温泉脈とほぼ並行して,北側に田の湯(たのゆ)温泉脈,さらにその北側に海門寺(かいもんじ)温泉脈が並走。源泉数1,415(枯渇335・利用1,017・未利用63)。泉質は単純泉・重炭酸土類泉・炭酸泉・重曹泉・含硫酸食塩泉・酸性硫化水素泉などで,リューマチ・神経痛・皮膚病・婦人病・胃腸病などに効能を示す。泉温28~112℃。別府八湯(浜脇・別府・亀川(かめがわ)・観海寺・堀田・鉄輪(かんなわ)・明礬(みようばん)・柴石(しばせき))と呼ばれる自然湧出の温泉地帯の1つとして発達。江戸期は幕府領で湯株として幕府から宿屋営業を許可された家が,元禄7年に18軒,文化4年に21軒で,明治維新まで同数。貝原益軒は「豊国紀行」で「別府は石垣村の南にあり。町あり。民家百軒ばかり。民家の宅中に温泉十所あり。いづれもきよし。庄屋の宅中にあるはことにいさぎよし。凡此地の温泉は,他邦にまさりてきよく和なり。家々に多きゆへ,其館に屋どれる客の外に浴する者なし。ゆへに浴数も時節も客の心にまかせて自由也。他の温泉のかまびすしく,さわがしきには似ず。かたわらにかけ樋の水ありて,温熱心にまかせて増減しやすし。薬師堂のほとりにある温泉のかたはらに熱湯あり。其上に乾浴する風呂あり。是又きよし。町半に川(流川)あり。東へ流る。此川に温泉わき出づ。其下流に朝夕里の男女浴す。また海中にも温泉いづ。潮干ぬれば浴するもの多し。塩湯なればことによく病を治すと云」と書いている。明治7年浜脇と別府の不老・紙屋各温泉が改築され,同12年竹瓦(たけがわら)温泉が新設,自然湧出泉を中心に旅館街の発達をみる。明治22年上総掘(かずさぼり)による温泉の穿掘が行われ,内湯のある旅館が温泉脈の分布とほぼ一致して,採湯深度も比較的浅い海岸部に集中することになり,同44年の温泉数は自然湧出17・穿掘576であった。厚い砂礫層からなる扇状地堆積物からなることは温泉の穿掘と市域の拡大に好都合であった。江戸期には温泉分布は流川と朝見川の下流域に集中し,明治期前半には各公衆浴場を中心に発達。同44年鉄道が開通(大正5年,日豊本線となる),そのカーブは当時の市街地の西縁を示しているが,第1次大戦後,山の手の松林をひらいて別荘街が出現。これらは第2次大戦後,保養所や旅館に転じたものが多い。現在約600軒のホテル・旅館があり,その中央部に楠・銀座など6つの商店街,また商店街に隣接して歓楽街も形成され,観光温泉都市としての性格を強く持つ地域である。第2次大戦後,経済高度成長に伴って,商店街のアーケード化,ホテル・旅館のデラックス化が進行した。昭和38年北浜に別府国際観光会館が完成。不老泉・竹瓦温泉・霊潮泉などの共同温泉浴場があり,湯治場の雰囲気も残っている。またこの地域の特色である砂湯は,道路の改修などのため廃止されたが,竹瓦温泉などには昔ながらの砂湯風景が見られる。昭和35年以降の乱掘による温泉異変を招き,昭和42年に特別保護地域を設定し,源泉の保護に努めている。なお広義の別府温泉は別府八湯を指し,源泉総数4,029,うち枯渇1,232・利用2,644(自噴736・動力1,908)・未利用153。温度別源泉数は25~42℃が217,42℃以上が2,241,水蒸気およびガスが339。湧出量は自噴毎秒1万4,895ℓ,動力毎秒7万5,522ℓ。宿泊施設781・収容定員3万2,150。年間宿泊利用人員480万4,454。泉質は放射能泉を除くすべてがある(昭和54年3月現在)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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