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佐羽内村(近世)


江戸期~明治9年頃の村名三戸郡のうち馬淵【まべち】川の支流熊原川上流域に位置する村名はアイヌ語のサパ・ナイで「頭の沢」「みさきの沢」の意という熊原川沿岸としてはすぐ目につく亀ケ崎とよぶ高く長い険崖の北東の沢で,まさにミサキの沢である盛岡藩領三戸通に属す村高は,安永6年「三戸御代官所惣御村三十三ケ村小高覚」39石余,「邦内郷村志」39石余(うち給地35石余),「天保8年御蔵給所書上帳」39石余(御蔵高3石余・給所高35石余),「旧高旧領」39石余なお「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名が見えない「邦内郷村志」では家数5「本枝村付並位付」によれば,位付は下の上,家数4安政3年「三戸通神社仏閣地名書上帳」では人数7家数は3~5軒を前後したという江戸初期には鮭が産卵のため遡上する上限の地であった「雑書」承応3年の条に三戸の熊原川は田子【たつこ】のうち佐羽内から馬淵川落合までで御運上砂金4匁が課されていた付近には山人によって木留明神が,川人によって魚留明神がそれぞれ祀られた明和元年藩命によって三戸代官が神門を再興修復した時の棟札によれば,両社ともに宮社はなく神門(鳥居)だけを建立して神霊を奉敬していたとあるまた地内の魚留は熊原川の鮭をめぐる漁業権の境界ともなっていたという明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属「国誌」によれば,明治初年の家数3,地味は菲薄で田勝ちというまた道地・石亀・杉本の3か村は「三村共に各村にして戸籍歳租等異なりと雖も,民戸軒を連て一村の如く,田圃山野も境界犬牙して別ちかたし」と注記されている明治9年頃石亀村の一部となる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7251040