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十三日町(近世〜近代)


江戸期~現在の町名江戸期は八戸城下の1町で,町人地城下の南西に位置し,中央を表通が走り,東は三日町,西は廿三日町に隣接する表町・上町のうち寛永4年根城南部氏の遠野移封後,盛岡藩主南部利直が根城の商家を移して作った町と伝えられる(八戸藩史料)「雑書」寛文元年11月17日の条に「八戸十三日町」と見える同12年7月には当町で揶駒が開かれた(八戸藩日記)天和2年に質屋が1軒みられ,元禄3年には当町の治右衛門が船問屋を許されている(同前)同9年の酒屋数は城下14軒中4軒あり,ほとんどが質屋を兼ねていた享保10年には5軒を数え(同前),安永4~6年の御用酒屋に大坂屋忠平・大塚屋伊兵衛・丸屋庄次郎がいる(八戸藩用人所日記)大坂屋(中村忠平)は安藤昌益の門弟の1人として知られ,大塚屋は八戸三店の1つとされる有力町人であった大塚屋はまた天明3年に質屋も開業し(多志南美草),文政5年からは和薬種支配方も勤めた(八戸藩勘定所日記)藩内一の豪商といわれた七崎屋半兵衛も当町に居住した一族の宇助・半十郎・甚太郎が金上武士となったが,藩政改革時の文政4年闕所改易となった(八戸藩史料)宇助は俳人三峰館寛兆としても知られる慶応年間の御用金献納者に当町では三春屋与惣治・大塚屋市兵衛・板屋太郎兵衛・熊野屋喜八郎・古屋清七・吉田豊作・泉屋吉兵衛・松屋長助らがいる(多志南美草・八戸藩日記)火事は延宝2年4月当町より出火し22軒(八戸藩日記),文政8年正月廿三日町からの大火で南側全部(八戸藩史料),同12年4月新荒町からの大火で31軒(同前),元治元年12月には廿三日町からの大火で3軒を焼失した(同前)なお,当町東端の十字路から南は櫓【やぐら】横丁と称され,思想家で町医者の安藤昌益が居住した昌益は支配者を否定し,自給自足の農業を基本とした「自然世」を理想社会と唱え,聖人・武士などを痛烈に批判して封建社会批判を行った門弟は八戸のほか江戸・京都・大坂など全国に散在し,著書に「自然真営道」「統道真伝」「孔子一世弁記」などがある明治初年の家数29,また櫓横町に商家が16軒あった(国誌)明治初年~明治22年まで八戸を冠称する場合があった同22年八戸町,昭和4年からは八戸市に所属明治27年の「八戸琹草」は呉服商11,和洋小間物商2,薬舗売薬舗2,度量衡器販売2,煙草・紙商1,砂糖・石油商1,菓子商同製造2,銅鉄物商2,荒物商6,穀物商1,酒造2,海陸物産商1,下駄職1,裁縫師1,庭師1を記載明治13年当町の浦山太吉が中心となり八戸共商会を設立,鮫築港の推進母体となった同30年泉山銀行が北側西角に開業,頭取の泉山吉兵衛は昭和の初めまで八戸最大の財閥を形成した大正13年5月の大火では全町が被災昭和26年から同44年までは丸美屋デパートもみられた同55年には南側西角にイトーヨーカドーが進出,地内のビル化が進み変容が著しい江戸期以降八戸の中心的商店街として現在に至る世帯数・人口は昭和5年37・323,同35年49・351




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7251197