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大工町?(近世〜近代)


江戸期~現在の町名江戸期は八戸城下の1町で,町人地裏町のうち城下の南西に当たり,六日町と十六日町の十字路から南の鍛冶町へ至る道筋に位置する町名は大工職人の居住によるものであろう「八戸藩日記」貞享4年5月7日の条に大工町とみえるが,2年後の元禄2年12月城下に編入され,町奉行の支配下となった同8年9月には当町の入口に「諸勧進のもの・乞食・非人・疑敷者一切入申間敷」として出入禁止の札が立てられ,辻番が配置された(八戸藩日記)また,同12年5月には火の用心のための辻番も設けられ,足軽が警戒に当たっている(同前)土木面では正徳3年5月,水抜き工事がなされるとともに町堰が新設された(同前)宝暦6年正月,前年来の凶作により当町の宇兵衛・勘七が町内の困窮者7人に銭を貸し出し,同年10月には宇兵衛に濁酒屋が許されている(同前)宇兵衛は延享2年の八戸御目見得町人由緒調(西町屋文書)にその名を連ね,天明~文政年間の宇右衛門は,東海坊仏平と号す俳人としても知られる(月館氏系図)文化10年の江戸屋敷普請では当町の中居屋重右衛門が100両を献納(八戸藩勘定所日記),天保7年10月には貯置米50石の供出により御目見得町人となっている(八戸藩日記)「八戸藩勘定所日記」同2年3月の条には,是川村分の人馬役として「大工町長吉」の名が見え,同14年9月には漆かきの領内一手請け負いが許された火事は,明和8年3月寺横町からの出火でほとんど焼失した(八戸藩日記)天明4年10月には当町からの出火により東側17軒・西側7軒(同前),また元治元年の大火では東側15軒を失ったという(八戸藩史料)明治初年の家数29,南の鍛冶町から西へ鳥屋部町に至る道を下道小路としている(国誌)明治初年~明治22年まで八戸を冠称する場合があった同22年八戸町,昭和4年からは八戸市に所属明治12年,はじめギリシャ正教徒であった中野徳次郎が自宅でバプテストの伝導を開始同26年8月には,中野から洗礼を受けた原十目吉らが当町に「帝国済民会」を設立,「国家同胞ノ貧苦艱難ヲ救済」(趣意書)することを目的に全国へ檄をとばした翌27年の「八戸琹草」は穀物商2・魚商1・酒造1・醤油醸造1・表具師1・提灯張職1・印判師1・石工1・建具師1を記載なかでも酒造業を営んだ大久保平蔵は,明治期~大正期にかけて八戸町の経済界に重きをなした大正13年5月の大火では全町が被災昭和40年代後半には当町南端部を3・4・8街路(ゆりの木通り)が貫通した昭和期の世帯数・人口は,昭和5年36・257,同35年73・309




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7251331