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都母村(古代)


平安期に見える村名弘仁2年3月陸奥出羽按察使文室綿麻呂・陸奥守佐伯清岑・陸奥介坂上鷹養・鎮守将軍佐伯耳麻呂・同副将軍物部匝瑳足継らによって,陸奥・出羽両国軍2万6,000人を動員して爾薩体・幣伊2村を征定しようという議が出され,同年4月17日文室綿麻呂を征夷将軍,大伴今人・佐伯耳麻呂・坂上鷹養を副将軍に任じ,7~9月のころにかけて,この平定戦が行われた(日本後紀)この間,「日本後紀」弘仁2年7月29日条に「出羽国奏,邑良志閇村降俘吉弥侯部都留岐申云,己等与弐薩体村夷伊加古等,久搆仇怨,今伊加古等,練兵整衆,居都母村,誘幣伊村夷,将伐己等,伏請兵粮,先登襲撃者,臣等商量,以賊伐賊,軍国之利,仍給米一百斛,奨励其情者,許之」と見えるこれによれば,邑良志閇村の降伏蝦夷吉弥侯部都留岐らは弐薩体村の蝦夷伊加古らと久しく敵対関係にあり,その伊加古らは兵を練り,衆を多く集めて都母村に集結し,幣伊村の蝦夷も誘い,連合して都留岐らを攻撃しようとしていたこのため都留岐は兵粮米の給与を願い出て,朝廷はこの日米100斛を給することを認めている都母村は後世の上北郡に当たる地域の古称で,蝦夷村の1つである古代蝦夷は,かなり広い範囲にわたる政治村落を営んで首長をいただき,おのずからなる国を形成していたそれが,政府側で「村」として把握されている「日本紀略」によれば,坂上田村麻呂は延暦13年と同20年蝦夷を討ったその後,弘仁2年文室綿麻呂は征夷将軍として爾薩体・幣伊2村の蝦夷を平定したが,同年12月13日の宣命によれば,坂上田村麻呂は「遠閉伊村」を征討したが,遺族の追討までいかなかったとして,この年文室綿麻呂の掃討戦になったとのべいている(日本後紀)とすると,延暦13年ないし同20年の胆沢【いさわ】・斯波(岩手県)方面の田村麻呂遠征は,遠閉伊(閉伊の奥深く)まで及んでいたことになる史料的に坂上田村麻呂と文室綿麻呂が本県域まで進んで蝦夷を討ったことは見えないしかし,爾薩体村・幣伊村の蝦夷が集結したという都母村も,文室綿麻呂の蝦夷平定の対象になったと思われる本県には田村麻呂が都母・津軽の蝦夷を討ったという伝承が残る後世に歌枕として有名になる「壺の石文」については,田村麻呂が都母の蝦夷を討ったとき,矢筈で「日本中央」と刻んだ碑をたてたとの伝説がある(袖中抄)これは,文室綿麻呂が都母の蝦夷を平定したことが,坂上田村麻呂の業績と間違えられて伝説となったものというまた,後世に糠部【ぬかのぶ】郡に置かれた一戸~九戸の九部(戸)制は,文室綿麻呂が蝦夷平定ののち残置した守備兵の駐屯地,すなわち柵戸【きへ】から発展した村落に由来するという説がある田村麻呂および綿麻呂が本県域まで進んだかどうかはなお未詳であるが,少なくとも都母村の蝦夷は弘仁2年までに平定されたと考えられる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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