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比内郡(中世)


陸奥国の郡名肥内・比那井とも書く(吾妻鏡など)米代【よねしろ】川中流域の大館【おおだて】盆地と鷹巣【たかのす】盆地を中心とする東は陸奥国鹿角【かづの】郡,北は同津軽平賀・津軽鼻和【つがるはなわ】の2郡,西は出羽国檜山【ひやま】・秋田の2郡,南は同国豊島【としま】・山本の2郡に接する四方とも広大な山林地帯で,阿仁【あに】川・小猿部【おさるべ】川・下内【しもない】川・犀【さい】川など大小10余の支流が米代川に注ぐ訓を「ひうち」とする説もある(奥羽観蹟聞老誌など)が,採れない古代には,出羽国秋田城管轄下の火内【ひない】村・椙淵【すぎぶち】村(三代実録)という蝦夷地扱い郡名初見は「吾妻鏡」文治5年8月26日条比内郡の成立を史料上初見の鎌倉初期に求める説もあるが,しかし11世紀の国策による中世的郡郷制編成をうけて平安末期に成立したとみるのが妥当である平泉藤原氏の数代郎従河田次郎として名高い河田氏が(吾妻鏡),比内郡郡司職に任命された開発領主であったかとみられる陸奥国管内の郡として成立したのは,前九年の役後に秋田城の機能が鎮守府に併合強化され,陸奥国府と鎮守府が中心となって北奥羽の蝦夷地開発を進めたことによる鎌倉期に陸奥の南部氏勢力が及んだから陸奥国管内となったとする説(地名辞書・秋田県史など)も訂正を要する北上【きたかみ】盆地から鹿角・比内両郡を経て津軽に向かう幹線路の津軽街道はこの頃に整備されたまた鎌倉末期に「比那井郡にある奥州賀都庄」という文書があり(金沢文書古文書),比内郡成立後のある時期に郡内に賀都【かど】荘なる荘園も成立していたとみられる鎌倉幕府成立後,比内郡地頭職に補任されたのは清和源氏一族の甲斐国御家人浅利義遠であるという(浅利氏正論など)それを証する確たる文書は現存しないが,建武年間には浅利一族がかなり郡内一円に根をはっているので(南部文書など),その可能性は強い13世紀末に南比内中野住人五郎四郎が糠部【ぬかのぶ】郡是河【これかわ】の安藤三郎の長男安藤太郎を養ったという文書は,当郡内の郷村名初見史料というだけでなく,この時期に当郡が馬産地としての役割を担っていたことも伝える同じく文和3年12月24日浅利浄光譲状は当郡内の支配構造を伝え(新渡戸文書),嘉吉元年には徳子【とつこ】氏など郡内郷村を苗字とする浅利一族も出現する(米良文書)戦国期に徳子(独鈷・十狐)城に拠って大館・扇田【おうぎだ】・八木橋【やぎはし】などに支城を配し,比内一郡をおさえた浅利氏は,やがて鹿角郡を掌握した南部氏と檜山城に拠って秋田郡を掌握した安東(秋田)氏から挾撃され,天正初年には安東氏の軍門に降る陸奥国比内郡は出羽国秋田郡のうちに編入され,豊臣秀吉もこの事実を認め保証する天正19年豊臣秀吉朱印安堵状写による秋田郡比内分は30か村7,370石余,「慶長6年秋田家分限帳」では8,098石余の地とする(秋田家文書)他方でこれに反対する南部氏や浅利旧臣の間では,この後も陸奥国比内郡の主張を続けているし(南部根元記など),秋田家でも「秋田郡比内庄」などと称してその地域的まとまりを認め,浅利旧臣を待遇した(秋田家文書)近世,秋田藩政下でも秋田郡北比内・秋田郡南比内と称して,比内の呼称と地域性を継承し,明治11年秋田県北秋田郡となり現在に至る




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7260755