100辞書・辞典一括検索

JLogos

15

大曽禰荘(中世)


平安後期~南北朝期に見える荘園名最上郡の西南部を占める村山盆地の西南部,須川より西の平野・山間部に広がる南は北条荘・大山荘,北は山辺荘に接する初見は左大臣藤原頼長の日記「台記」仁平3年9月14日条(県史15上)である同条によれば当荘の年貢本数(定額)は,布200段・馬2疋で,荘の管理にあたる現地の責任者は平泉(現岩手県平泉町)の藤原基衡であった頼長は新たに布700段・馬2疋の増額を要求したが,基衡はこれを了承せず,布200段・水豹皮5枚・馬2疋に止めてほしいとの意向を示した頼長はそれに対して,「田多地広」の当荘が増額に応じられぬはずはないとして,馬2疋・布300段を改めて要求し,基衡もこれに従ったという頼長が父の関白藤原忠実から所領を譲りうけたのは久安4年といい,摂関家藤原氏領としての当荘の成立は12世紀前半にまで遡ることになる「兵範記」保元2年3月29日条所載の同月25日太政官符(県史15上)によれば,左大臣頼長が保元の乱で敗死すると,当荘は没官の対象とされて後院領(皇室御領)となった鎌倉期,当荘の地頭となったのは大曽禰氏である源頼朝の側近,安達藤九郎盛長の二男時長に始まる大曽禰氏は安達氏本宗と手を携えて鎌倉政界に重きをなした時長が大曽禰を称したのは,父盛長から譲られた大曽禰荘にちなんだものとも思われる柏倉明源寺境内には安達盛長の創建と伝える毘沙門堂が現存するこの堂はもと寺山の毘沙門山真妙寺にあり,真妙寺の住持は安達氏一門の人びとが代々継承したという(明円寺縁起/滝の山と長谷堂城)時長―長泰―長経―宗長(尊卑分脈)と続いた大曽禰氏の繁栄も弘安8年に終わりを告げた弘安8年11月霜月騒動によって安達氏は滅亡し,大曽禰宗長もまた安達泰盛らとともに討死にするにいたった当荘の地頭職は没収され,おそらくは北条氏に宛行われることになったものと思われる貞治3年9月11日の沙弥真季打渡状(相馬文書/県史15上)によれば,相馬讃岐守胤頼は「出羽国下大山庄内漆山郷,大□□(曽禰)庄内門田・飯沢・前明□(石)」の下地を打渡されている陸奥国行方郡(現福島県相馬郡)・高城保(現宮城県松島町付近)に所領をもつ相馬氏が出羽国内に所領宛行をうけたのは,奥州管領(探題)斯波直持に従ってこの方面を転戦した軍功によるものかと思われる門田・前明石は現在の山形市大字門伝・前明石にあたる南北朝期の当荘が北条氏所領跡として欠所地となり,諸人に分給されることになったと推測させるものである南北朝期のこの史料を最後に,大曽禰荘の文字は姿を消すなお,大曽根は古館の古名ともいう(地名辞書)村山地方,山形市の西南部,大曽根・村木沢・柏倉門伝・本沢などの旧村域が四至内に含まれる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7262053