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庄内藩(近世)


江戸期の藩名鶴岡藩ともいう譜代・中藩居城は鶴岡出羽国の西南部,はじめは遊佐【ゆざ】郡・田川郡・櫛引【くしびき】郡を含み,寛文4年以後は飽海【あくみ】郡・田川郡の2郡となる藩主酒井氏は新田源氏の末裔,徳川氏と同祖の家柄,始祖左衛門督忠次は徳川四天王の随一といわれ,家康の叔母碓井姫を室に迎え,永禄7年三河国(現愛知県)吉田城主となった人物,2代家次の時,天正18年下総国臼井(現千葉県佐倉市付近)3万石,慶長9年上野国高崎(現群馬県高崎市)5万石,元和3年越後国高田(現新潟県上越市)10万石となり,3代忠勝の時,元和5年信濃国松代(現長野県長野市)10万石に移り,同8年山形藩最上氏の改易にあたり,出羽国庄内に入部歴代の藩主は次の通り初代忠次―2代家次―3代忠勝―4代忠当―5代忠義―6代忠真―7代忠寄―8代忠温―9代忠徳―10代忠器―11代忠発―12代忠寛―13代忠篤―14代忠宝酒井氏の庄内配置の目的は,山形の鳥居忠政を中心に,忠政の女婿庄内の酒井忠勝,妹婿真室の戸沢政盛,従弟上山の松平重忠,忠勝の弟左沢【あてらざわ】の酒井直次,同じく忠勝の弟白岩の酒井忠重などを麾下とする戦略体制の樹立にあり,奥羽の外様大名の監視を目的とした庄内藩領は最上川で南北に分断され,川北に亀ケ崎城,川南に鶴ケ岡城の2城があった忠勝は鶴ケ岡城を居城に定め,出羽国第一の港町酒田を城下とする亀ケ崎城には城代を置いた入部当時の鶴ケ岡城は本丸だけの小城であったので,二の丸と広大な三の丸を取り立て整備したが,質素な城で,天守閣はなく,石垣も少なく,完成後も角櫓は2基にすぎなかった三の丸には役所や家中(侍)屋敷,藩主の菩提寺大督寺などを配置,曲輪【くるわ】(三の丸)の東側と南側に町人町を配置,その外側と曲輪の北と西には家中や給人(下級武士)の町や寺社を配置した元和8年の御知行目録によれば,石高は13万8,071石余,同年の出羽荘内寺社領目録では寺社領高合3,530石余(うち羽黒領1,460石余)元和9年全領に検地を実施,5万3,000余石の出目を検出,忠勝は幕府に対し20万石の役儀を願い出たが許されなかった寛永9年加藤清正の嫡子,肥後熊本藩主加藤忠広が罪を得て庄内藩に預けられ,左沢1万石を給された時,忠勝は忠広を丸岡村(現櫛引町大字丸岡)に置き,左沢1万石を丸岡1万石への変更を進言,その替え地として左沢1万2,000石を給され,庄内藩の石高は14万石余となる正保4年忠勝病死,その遺言により三男忠恒に松山(松嶺)藩2万石(左沢1万2,000石を含む),七男忠解【ただとき】に大山藩1万石を分知,天和2年次男忠俊の子忠高に余目【あまるめ】5,000石を分知したが,庄内藩の表高は変わらず14万石余であったしかし実高は漸増し,貞享元年18万石5,302石余,宝暦8年19万2,626石余となる丸岡藩領は承応2年忠広の病死とともに収公大山藩は寛永8年藩主に嗣子なく急死,同9年改易余目領は元禄9年酒井忠盈が嗣子なく病死,家断絶いずれも幕府領となったが,田川郡のこれら公領2万7,000余石は,幕末の江戸市内取締りと新徴組委任の功に対し,元治元年庄内藩に与えられ,同年17万石格式の大名となったこの間,田川郡の幕府領は承応2年~寛延元年,寛延3年~明和6年,天保13年~弘化元年の128年間の大部分は尾花沢代官支配,大山村に陣屋が置かれ,寛延2~3年,明和6年~天保13年,弘化元年~元治元年の67年間は庄内藩の預り支配を受けた慶応二年寅御物成御勘定一紙によれば,高辻19万1,611石余,御加増地高辻2万7,138石余,新田高1,771石余,合計22万520石余とある庄内藩の経済的基盤は米作農業にあり,その基礎は最上氏時代の青竜寺【しようりゆうじ】川・中川堰・北楯堰・因幡堰など大灌漑用水路の開削によって確立され,庄内藩は主としてその利用と改良によって新田開発を推進した小藩から成長して来た庄内藩は最上牢人をはじめ,多くの牢人を召し抱えた家臣団の構成は,家中(侍)と給人(下級武士)からなり,家中数は初期の達三公御代諸士分限帳では483人,給人は正保4年の調査では徒士60人・持筒25人・足軽1,000人・諸役人321人・旗巻110人・中間511人,合計2,027人とある庄内藩の知行制は蔵米知行制,家中や給人に対する知行米,扶持米は米札で支給,米札制度は寛永元年郡代柴谷武右衛門によって創始され,米札は貨幣同様流通した農民支配の機構は,郡代―郡奉行・代官―大肝煎(貞享4年大庄屋と改称)―村役人村役人は肝煎と長人の二役制,長人は時代と所によって組頭,添役とも呼ばれた元和検地の結果,年貢増徴となり,遊佐郡荒瀬郷・遊佐郷の百姓は逃散して抵抗した藩は大肝煎の失態としてその責任を追及したので,寛永11年遊佐郷大肝煎高橋太郎左衛門による幕府への上訴事件に発展したこの頃忠勝の弟酒井長門守忠重は白岩8,000石を領し,激しい収奪の結果,惣百姓一揆が勃発,百姓側の敗北に終わったが,忠重も責任を問われ改易された高橋の目安と白岩一揆の訴状は,初期農政の苛酷さを示している長門守は実家に寄食し,兄忠勝の寵を受け,藩政に干渉するのみならず,忠勝の世子忠当を廃し,自子九八郎を立て宗家乗っ取りの陰謀をたくらみ,忠当擁護派と対立を深めた忠当派の中心人物高力喜兵衛(4,000石)らはこの事を忠当の岳父であった老中松平伊豆守信綱に訴え援助を求めたが,これを察知した長門守に讒訴され,忠勝の逆鱗に触れ,九州に追放され,高力派の多くは死罪や追放に処されたしかし長門守の陰謀も正保4年の忠勝の死によって挫折した4代忠当の襲封後はその室千万の父松平伊豆守が積極的に庄内藩政に助言し,特に万治3年忠当の死後,5代忠義の代には後見人として藩政の指導に当たった教えを受けた代官白石茂兵衛の記録「白石茂兵衛覚書」は伊豆守の政治思想を示している庄内藩政はこの頃基礎を確立した寛文年間は幕藩体制の確立期で,藩財政の再建に辣腕を振るったのが郡代高力忠兵衛であった財政を緊縮,倹約令を励行,農村に徳政を敷き,百姓の旧債を破棄,脇借を禁じた上で増税を実施した忠兵衛の収奪強化で,藩財政は一時好転したが,百姓の不満は大きく一触即発の険悪な空気が領内にみなぎった忠兵衛は天和元年中川通の百姓から巡見使に訴えられ失脚した元禄年間には新田開発が盛んに行われたが,藩財政は窮乏し,元禄3年家臣の俸禄を削減する上米【あげまい】制が始められた享保年間に入ると米は過剰となり,米値段が暴落して藩財政の危機を招いた元文4年には日光東照宮の修理に4万8,000余両を費やしたため藩庫は逼迫し,寛保元年には全藩士の禄米と扶持米を取り上げ,1人につき1日米6合と禄米100石に750文の雑用金を支給したさらに安永4年には藩主の雑用金を7年間半減する建白書が提出された9代忠徳【ただあり】は酒田町の豪商本間光丘を登用し,財政の再建に努めたが,天明の凶作で再び悪化し,寛政初期には藩の借財は10万両に及んだ寛政7年山浜通代官和田伴兵衛が独断で温海組の未納年貢を切り捨てたことを契機に,忠徳は中老竹内八郎右衛門,郡代白井矢大夫らを改革御用掛に任命,本間家の商業資本との癒着を断ち,農本主義的政策に転換したまず貸付米8万3,000余俵と貸付金1万3,000余両を切り捨て,代官才覚貸付米金は当分据置きとし,地主に困窮与内米をかけ,その資金で荒廃地の年貢を減じて農村の再建に努めたその結果農村は立ち直り,藩財政は安定し,庄内藩は神田大黒の異名を得たまた白井矢大夫の進言により士風刷新,能吏養成のため,文化2年藩校致道館を大宝寺に創立し,徂徠学を通じて藩士の子弟を教育したしかし竹内,白井の失脚の後,文化13年致道館は政教一致の目的から曲輪の内,馬場町十日町口に移され,一部を会所に使用した庄内藩の徂徠学は水野元朗に始まり,享保10年板行された「徂徠先生答問書」上中下3巻の後半は,元朗の質問に荻生徂徠が答えたものである庄内でも貞享3年・享保5年・天明3年など大凶作は多かったが,領内の産米で領民の飯米が不足することは一度もなかったその点からも天保4年の凶作は前代未聞であった餓死への不安が高まり,9月1日には山浜通由良組水沢村の搗屋2軒が米の買占めを理由に温海組の窮民に打ち毀された藩はただちに八組郷中両城下大山領その他預け地にそれぞれ1,000俵ずつ計1万2,000俵の救米を給与することを達し,11月には孤独者片輪者長病者で扶養する親族のない者に1,000俵を賜与し,極窮者の救済に努める一方,他国米の買付けに努力し,領民には合積(割当制)を実施し,1人の餓死者も出さずに乗り切ったしかし農民の疲弊は甚しく,藩は天保9年農政改革を断行し,累積した農民の拝借米金を切り捨てたが,それを恩恵として石高20石に1俵の与内米を毎年取立て貯籾を充実し,凶作時においても年貢の確保を図り,農民の負担を更に強化した天保11年11月越後長岡藩主を川越(現埼玉県川越市)に,武蔵川越藩主を庄内に,庄内藩主を長岡(現新潟県長岡市)に移す三方領地替えの幕命が降った庄内藩は転封経費の調達を本間家をはじめ領内の大地主や大商人に依頼する一方,未納年貢の納入を督励した百姓は貯籾が長岡に持ち去られることを恐れ,貯籾の持出反対,夫食米貸付の保証,拝借米の即時取立反対,高1石につき7人の人足徴集反対を嘆願した新領主の悪評が伝えられ,再検地の不安が高まるにつれて,旧主を慕い,新領主を嫌う感情が強まり,同年12月山浜通西郷組の百姓11名が幕命撤回を求める駕籠訴のため江戸に登ったのを皮切りに,江戸越訴,地元の農民大集会,近隣雄藩への愁訴が続けられた百姓の転封阻止運動は領主の暗黙の下,大地主や大商人に支持されて高揚し,諸大名の同情を集めたので,幕府は天保12年7月ついに転封令を撤回せざるを得なかったこの農民の運動は大正・昭和の不況期,小作争議が多発した頃,「天保義民」の名の下に農民の理想像として顕彰されるほどの影響力を有した天保13年幕府は庄内の幕府領2万7,000石の庄内藩預りを中止し,尾花沢代官の直轄支配とし,大山村に陣屋を置いた代官直轄支配は未納年貢の無利子10年賦,庄内藩が課していた酒役銭の廃止,各種職人の役銭免除などの恩恵を与えたしかし幕府は弘化元年再び庄内藩預りを命じたため,大山の酒屋を中心とする幕府領の農民はこれを不満とし,阻止運動を起こし江戸登駕籠訴を行ったが,余目領農民の内通があり,効果は現れなかった幕府領農民は,陣屋役人から庄内藩役人への事務引き継ぎを実力で阻止したそのため引き継ぎは一時延期されたが,7月に入り幕府役人による首謀者の逮捕が始まり,獄門2名,遠島3名・重追放3名を含む参加者三千数百人が処罰され,事件は農民側の敗北に終わった天保14年庄内藩は印旛沼疎水工事手伝いを命ぜられ,幕末期に海防問題が重大化した際にも警備が割り当てられた安政元年庄内藩は品川沖五番台場の警備を命ぜられ,また同6年には蝦夷地に領地と警備区域を割り当てられて,360余人の部隊を派遣し警備と開発に当たったまた庄内藩は文久3年,幕府が募集編成した新徴組を委任され,江戸市中の警備にあたり,翌元治元年には田川郡の幕府領2万7,000余石を加封され幕府側の雄藩として活躍した当時の庄内藩の実力者は中老松平親懐と江戸留守居役菅実秀であったしかし庄内藩にも幕府一辺倒を危険視し,公武合体派と気脈を通じるものがあったその中心は酒井右京,大山庄大夫であり,その周辺には江戸詰や江戸留学の間に世界の情勢を察知した人々が集まり,藩主の交替による政策転換を期待した第2次長州征伐が失敗に終わった慶応2年10月,主流派は藩内に政策批判の起こることを恐れ,改革派の一斉逮捕に踏み切り,翌3年9月庄大夫の斬罪,右京の切腹など厳しい断罪を降し,藩論の統一を図り,戊辰戦争に臨んだ慶応4年徳川慶喜が鳥羽伏見の戦に敗れると,庄内藩は慶喜追討の勅命を奉せず,寒河江柴橋領の争奪から天童城を攻撃し,新政府に毅然たる態度を示したこの頃奥羽諸藩は薩長の横暴を憎み,奥羽越列藩同盟を結び,陸奥会津藩に対する寛大な処置を要求したが容れられず,戦争は奥羽越に広がったしかし新政府軍の攻勢に同盟を離脱するものが相次いだため,庄内藩は違約の隣藩を攻撃し,新庄・本庄(現秋田県本庄市)・横手(現秋田県横手市)を攻略し秋田城に迫ったが,若松城陥落後は各地に敗北が続き,米沢藩降伏後の9月23日謝罪状を提出した新政府軍参謀黒田清隆は26日夜鶴岡に入り,藩主忠篤の降伏を認め,27日鶴ケ岡城を接収した酒井家は12月家名を立てられ,忠篤の弟忠宝【ただみち】が家督を継ぎ,12万石を与えられたこのような寛大な処理の裏には西郷隆盛の支持があったというしかし同月岩代国若松(現福島県会津若松市)に転封を命ぜられ,翌明治2年には磐城国平【たいら】(現福島県いわき市)に変更されたが,熱心な阻止運動を展開し,同年7月70万両の献金を条件に居座りを許され,同年9月庄内藩は大泉藩と改称された明治4年廃藩,庄内藩領は,大泉県・酒田県(第2次)・鶴岡県を経て山形県に編入された




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7263260