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大枝郷(中世)


鎌倉期~戦国期に見える郷名常陸国南郡のうち鹿島社領正治2年12月19日の大禰宜中臣親広の政親充の譲状に,「譲渡 大禰宜職并……大枝・橘郷事」と見え(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ),鹿島社の大宮司に次ぐ重職である大禰宜職を世襲する中臣氏の所領であった田数は,弘安田文に「大枝十三丁大」(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文に「大枝十三丁四反大」(所三男氏所蔵文書),康永2年正月9日書写の鹿島神宮領田数注文案に「大枝十三丁四段大」と見える(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)貞応2年6月日の常陸国庁宣によると,政親から大枝郷を譲与された則長は,「大枝郷所課大般若経奉読」に関する神物を5か年にわたって抑留し,神事を懈怠していたため,鹿島社御祈祷衆・供僧らに訴えられ,この結果国司藤原某は,政親の三男鬼三郎丸を大枝郷の給主とし,神事を勤行させることを命じている(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)弘安5年「大枝郷給主職」をめぐり大禰宜中臣頼親(政親嫡子)と前司中臣実則が争い,幕府は「実則募武威,背本所下文令押領事,甚無謂」として,実則の押領を停止させている正応4年7月,九条忠教は中臣朝親を大禰宜職に補任し,大枝郷以下の神領を知行させ(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ),正安3年4月22日,朝親はこれを嫡子能親に譲与しているところで正和5年閏10月16日の野本時重覆勘状案によると,治承7年南郡惣地頭職に補任された下河辺政義は,同年「勲功之賞」として大枝郷を拝領し,嘉禎元年妻の淡路局に当郷を譲与したが,同3年社家との間で大枝郷をめぐる相論が起こった時,和与状が取り交わされ,下地中分が行われたというまた,これよりさき,承元元年「馬大夫検注」とよばれる検注が行われた時,「栗俣村」とよばれる新田が成立しており,嘉禎の中分以後,文応元年までの間にも,「新々田」とよばれた「岩瀬村」が開発され,文応元年淡路局は,本郷を野本四郎左衛門入道行心に,栗俣村を野本時光に,岩瀬村を孫女尼浄妙に譲与している(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)永仁年間中臣朝親は,幕府に,下地中分の契約に違反して大禰宜分を侵害した地頭野本行心を訴えたこれに対し地頭側は,嘉禎3年の和与は大禰宜が事情を知らない地頭代官を語らって定めたもので,地頭は全下地を支配し年貢だけを大禰宜に進納する,と弁駁したが,同6年2月3日幕府は,嘉禎の和与状にもとづき分割知行すべしと裁許している(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)正和年間にも郷内の新田である栗俣・岩瀬村をめぐって,野本行心の孫時重と朝親の嫡子能親との間で相論が起き,幕府は大禰宜の訴えを認めて地頭野本時重の所領を新田押領の罪で収公するが,地頭側は同5年,当時能登貞光(野本時光子息)が知行する栗俣村は,嘉禎の中分でも,地頭の開発した新田ゆえに年貢の半分だけが大禰宜家に進納され,下地は中分されなかったと主張し,岩瀬村は中分以後の開発地ゆえ,下地・所務ともに「社家不相綺之地」で地頭の支配下にあると主張して,所領収公の不当性を幕府に訴えている(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)文保2年大枝郷に総社造営役が賦課されるが,「大枝郷地頭益戸和泉前司(行助)」は,「一切無其例」と拒否している(常陸国総社宮文書/県史料中世Ⅰ)また,同年「大枝郷下地者,社家与地頭,以和与之儀令折中下地」にもかかわらず,地頭は下地を打渡さない,と大禰宜中臣良(能)親から訴えがなされ,二条道平は良親の大枝郷の知行を保障し(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ),正中2年には,「鹿島社不開御殿仁慈門造営」役をめぐる「大枝郷給主(中臣)能親与地頭野本四郎左衛門尉貞光并和泉三郎左衛門尉顕助等相論」に対し,散位某らは,当郷は「地頭・給主折中之地」ゆえ,「地頭・給主共可造進」ことを執達している(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)翌3年3月17日,良親は嫡子毘沙松へ大枝郷を譲与している建武元年12月大禰宜中臣高親は「一,大枝郷〈栗俣・岩瀬・本郷三ケ村〉右,嘉禎年中折中之地也,而本郷并栗俣村地頭野本能登四郎左衛門尉(貞光)跡,社家分下地押領之,神祭物抑留之,次本郷一分地頭益戸下野守,子細同前,次岩瀬村地頭大期上総入道跡,同前,然間社家当知行,㝡狭少也」と記す社領并神祭物等注進状を提出し,地頭らの押領を訴え(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ),同4年大枝郷は前国司春日顕国と小田氏の大軍に攻撃され,栗俣村を知行していた野本朝行の代官は,在所を焼き払い妻子を山林に逃れさせている(熊谷家文書/結城市史)貞治4年大禰宜高親は,「南郡大枝郷半分并供米」を益戸前下野守国行・徳犬丸らが押領したと幕府に訴えるが,益戸側は,「於彼所者,譜代相続,于今無相違地」と反論した(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)また,この頃岩瀬郷と郷名でよばれていた岩瀬村についても,同年閏9月14日,大胡秀能は,「抑於彼岩瀬郷者,本主益戸左衛門尉新田開発為後閑堀内之間,自往古到于今,無所役所也」と,大禰宜の訴訟に反論している(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)応安7年9月27日,安富・山名両氏は,下総国香取社大禰宜長房の訴えにより,「常陸国大枝津,高摺津以下浦々海夫」の沙汰を常陸大掾氏や鹿島大禰宜らに命じており,応安年間頃と推定される年月日未詳の海夫注文には「大ゑたの津 大せう知行分」と見える(香取文書/千葉県史料)大枝郷は霞ケ浦に接していたと推測され,郷内の大枝津は常陸大掾氏が知行していた永正16年3月14日,小田政治は,「御神領大枝郷内之上当給人,雖莵角成妨,信綸旨・院宣之筋目,断而加下知,速落居」させると約しており,この頃は小田領であった(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)これ以降,大枝郷の地名は見えなくなる現在地については,石岡市小井戸に比定する説もあるが(関城繹史),小井戸は弘安田文・嘉元田文で,大枝郷と併記されていることなどから,この説は成立しがたいむしろ玉里村下玉里字大井戸とする説(新編常陸)の方が,かつて下玉里に大枝津の小名が存在したこと(地名辞書)からみて妥当であろう




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7271946