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東条荘(中世)


鎌倉期~戦国期に見える荘園名常陸国のうち弘安田文に「信太東二百七十丁二段大,信太庄六百二十丁内」とあり(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文にも「一,信田東 二百七丁二反大,一,信田庄 六百二十丁内,本庄 四百十丁,加納二百十丁」と見える(所三男氏所蔵文書)当初は信太郡の東部を意味していたものが,次第に信太荘に対する信太東荘として区別されるようになり,小野川を境として西を信太荘と称し,東を東条荘と呼称するに至ったものと思われる立券荘園であった形跡はみられず,俗称とも思われるが,鎌倉中期に公田200余町が存在した点から,開発は早いと推定される当荘の開発経営に関係したと思われる東条氏は,常陸大掾氏の一族で,多気直幹の第三子五郎左衛門尉忠幹が東条に居を構えた事に始まる「鹿島大使役記」によれば,正嘉元年に東条兵部尉忠幹,文永元年に東条村五郎,文永8年に東条清幹,弘安元年に東条宗幹,正応5年に東条三郎,また,元応2年には東条高田,南北朝期の貞治元年には東条能登,室町期の応永11年には東条高田の名が見え,それ以外の年代には東条とのみ記されている(安得虎子)「新編常陸」には忠幹―光幹―清幹―宗幹と見え,以後世次不詳とするしかし,東条氏は7年に1度鹿島神宮の大使役を勤め得る基盤を東条荘に有する有力な氏族であった東条荘としては,「群疑論見聞」の識語として,「建長八年丙辰八月十六日,於常陸国東条庄小野郷書写之了,執筆良聖,時年廿三才也,聖忍」と見え(金沢文庫古文書),小野の逢善寺で良聖が書写している弘安10年11月日の善海戸帳送文案に「常陸国東条庄上条内祐村,例進御戸帳事,合壱疋〈但去今両年分也〉」と見え(熊野速玉神社文書/鎌遺16404),善海が去今両年分の戸帳1疋を熊野新宮に運上しており,当荘は上条と下条に分かれていた祐村の名は現在確認できないが,社村の誤りとすれば,竜ケ崎市八代に比定される建武元年12月日の鹿島大禰宜中臣高親社領并神祭物等注文に「南三昧院,用重名内……三鳥居,南,東条地頭,小野,押領之」と見える(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)この頃鹿島社領の多くが,地頭によって押領されていたようで,この注文には,東条氏をはじめとする押領人の名が列挙されている鹿島大使役を勤める家として東条氏も鹿島社の周辺に屋敷などがあったものと思われる東条氏は南朝方に味方したようで,建武4年11月日の烟田時幹軍忠状によれば,東条城や亀谷城の東条一族に対するため,佐竹義春の軍勢に加わった烟田氏が当地において合戦し,7月から9月にかけて,富田胤幹以下が亀谷城に入り,東条荘周辺の南朝方と戦っている(烟田文書/大日料6-4)このような状況の中,北畠親房らが東条荘に漂着,神宮寺城に入り南朝方の活動が再び活発化する矢先,建武5年10月に佐竹勢が来攻し同城は落城,次いで阿波崎城も落城する(烟田文書/大日料6-4)この敗戦により,北畠親房は小田城に逃れ,東条荘周辺は,北朝方が優勢となった康永3年2月日の別府幸実軍忠状によれば,暦応4年9月には高師冬勢が,屋代信経の先導を得て信太荘・東条荘の南朝方の拠点である佐倉城・東条城・亀谷城などを次々と攻略する(集古文書/大日料6-6)暦応4年10月29日,別府氏などが信太荘や東条荘における北朝方の警固などに活躍し,高師冬より証判を受けている(別府文書/大日料6-6)興国元年10月10日の北畠親房御教書によれば,興国元年頃,南朝方が一時的には,亀谷城の北朝方を追出し,東条氏の一族の支配下においている(結城文書/栃木県史)しかし,康永元年10月16日の法眼宣宗書状に「東条一族多分ハ,最前変所存候」と見えるような状態であった(結城文書/栃木県史)その後,東条氏は鎌倉府の指揮下に入ったようで,貞治4年正月22日の鎌倉公方足利基氏御教書によれば,二階堂幸鶴丸の所領である久慈西郡の中寺田村を佐竹義篤らが常陸守護職を背景に押領しているので,宍戸安芸守とともに東条能登守が下地を二階堂氏に引き渡す遵行使の役を命じられている(武州文書)応安年間頃と推定される年月日未詳の海夫注文に「あはさきの津〈東条能登入道,一方難波知行分〉,むまわたしの津〈東条地頭,領家〉,……ふつとの津〈とうでう,一方東条能登入道〉,ひろとの津〈同人〉,ふなこの津〈同人〉」および「東条庄内一方,阿波崎津,馬渡津,福戸津,飯手津,大壺津」と見え(香取文書/千葉県史料),霞ケ浦に面した港があり,香取社に海夫役を納めていたさらに東条氏は,信太荘内の広戸や舟子をも知行下においていた円覚寺の造営に関する永和3年5月21日の雑賀希善請文,同年10月6日の関東管領上杉憲春奉書によれば,円覚寺造営のための棟別銭徴収が常陸大掾氏に命じられており,一族である東条氏が東条荘からの棟別10文の徴収にあたったことが推測される(円覚寺文書/神奈川県史)東条荘内の社村は,屋代越中守師国が知行していた応永30年8月日の烟田幹胤軍忠状に「八月二日以御意鹿島・行方・東条同心仁,向真城致忠節候」と見え(烟田文書),小栗満重の乱に際し,東条氏も鎌倉府の指揮下に入って活躍しているところが,応永31年正月23日の関東管領上杉憲実の奉行人長尾忠政の奉書に,「常陸国東条庄下条〈市崎郷〉⊏ ⊐参分□之事,為御料所々□置也」と見え(臼田文書/県史料中世Ⅰ),東条荘の下条に含まれる市崎郷の一部が鎌倉府の御料所となり,信太荘に本拠を有する臼田氏に預け置かれている市崎郷が東条荘の下条に属していたこと,先述の弘安10年の善海注文に見える社村が上条に属し,逢善寺に伝存する「胎灌頂私記」の奥書に,「天文三年甲午従老師令御本之伝受於下条高田青宿幸運寺……書写畢,金資亮遵三十四歳」と見えることなどから,現在の竜ケ崎市・新利根町のあたりを上条,東町・桜川村・江戸崎町のあたりを下条と想定できよう年未詳5月10日の左近将監重憲書状に,「就二階堂信濃守跡之事示給候……於東条庄内者,私先奉公之事候ヘ共,未被行御恩賞仁候」と見える(臼田文書/県史料中世Ⅰ)足利持氏の奉行人として知られる二階堂盛秀跡地をめぐって,東条荘の重憲なる者が臼田氏と対立し,鎌倉府の長尾氏に事情を説明して善処を願い出ている戦国期には,大永3年に屋代城周辺において,土岐原氏と小田政治との合戦があり(真壁文書ほか),この頃から土岐原氏の勢力が東条荘内にも浸透していく弘治2年に土岐治英が中心となり,馴馬に多宝塔を建立するが,その九輪銘によれば,「東条左近将監平朝臣英幹,東条泉元長居士妻女妙昌,同息平朝臣英重」をはじめとして,小林氏・塚本氏・内田氏・増尾氏・秋元氏・山崎氏・渡辺氏・浅野氏・海保氏など周辺の武士も数多く参集している(常総遺文)また,弘治4年3月7日の某判物によれば,東条荘の南側の常陸川に接した野地の開発も着手されている(大野文書)この様な動向と一体をなして,永禄11年5月1日に「東条之庄峯熊野権現宝閣壱宇」を土岐治英が大檀那として造立,天正15年に「東条之庄古渡峯熊野三社大権現」を土岐治綱が大檀那として造立し(安得虎子),さらに,永禄元年頃から土岐治英が定珍と師旦の契約をして,元亀元年には定珍を逢善寺の15代学頭として迎え,天正年間に入ると境内の整備を行っている文禄の太閤検地を機に当荘域は河内郡に属した慶長7年10月23~26日にかけて行われた高田の検地帳に「常陸国河内郡東条庄高田村御縄打水帳,九冊之内」と見え(岩月家文書),近世においても在地の呼称としては存続した現在の稲敷郡のうち,小野川を境として東南部の地域で,現在の浮島を除く桜川村・新利根町・河内町および竜ケ崎市・東町・江戸崎町の各一部が含まれる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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