西岡田郷(中世)

鎌倉期~南北朝期に見える郷名常陸国佐都荘のうち弘安田文に「西岡田十丁」と見える(税所文書/県史料中世Ⅱ)正慶元年6月日の臨川寺領目録に「一,常陸国佐都庄……同西岡田郷」と見え(天竜寺文書/神奈川県史),天竜寺領で世良親王家が領家となっていたが,年貢30貫は近年地頭某に押領されている旨が記されており,不知行地となっていた元弘3年7月23日の後醍醐天皇綸旨は臨川寺に対して,当郷を含む6か所の寺領管領を命じている(臨川寺文書/大日料6-1)建武2年正月25日,後醍醐天皇は恵林寺領を除く「甲斐国牧庄〈号高橋庄〉東方〈道薀跡〉」を「常陸国佐都庄并西岡田領家職・同東岡田地頭領家」職の替わりとして臨川寺に寄進し,寺領としての管領を命ずる綸旨を出しており(臨川寺文書/大日料6-2),鎌倉後期以来,佐竹氏ら在地武士の年貢押妨によって荘園領主の支配は思うにまかせない状況であった暦応4年9月23日の光厳上皇院宣にも「常陸国佐都庄〈東岡田・西岡田〉」が見え,もとのごとく管領すべきことを命じている(臨川寺文書重書案文/大日料6‐6)年月日未詳の天竜寺領目録にも佐都荘・東岡田とともに当地が見え(鹿王院文書/神奈川県史),時期は不詳であるが,その荘園領主権は臨川寺から天竜寺へと移動したと考えられる正長2年4月27日の某知行充行状写に「佐都庄岡田郷内筑後五郎跡〈一方〉事」と見え(石井太郎左衛門文書/家蔵文書),室町期には東岡田郷とあわせて岡田郷と称されるようになったものと思われる現在の常陸太田市岡田町付近に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7275728 |