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戸矢子保(古代〜中世)


平安末期~室町期に見える保名都賀郡のうち永野川流域に立地する長寛2年6月20日の下野国司庁宣に「庁宣 留守所,可令早以薗部・戸矢子両郷,為東大寺御封代便補保事,右件両郷,任前例停止万雑事,可為便補彼寺御封米代之状,所宣如件」と見える(百巻本東大寺文書/県史古代)これ以前,応保2年3月7日下野国司大江信遠は下野の国衙留守所にあてて,薗部郷を東大寺封戸の便補保(封戸の替わりとして与えられた所領)にすることを命じたが(東南院文書/県史古代),この時下野国司藤原懐遠は薗部郷に戸矢子郷も含めて,東大寺の便補保とすることを留守所に命じたしかし,下野国衙からこの両郷を保とすることは広大すぎるという訴えがあり,一時戸矢子保は元に戻されたが,東大寺の覚仁から強い要請があり,永万元年12月17日下野国司は両郷を復活するよう留守所に命じた(東大寺文書/県史古代)両郷は東大寺の便補保となることが確定し,安元元年8月7日の東大寺領庄園文書目録には「下野国便補保文書五通,一通一枚 長寛二年以薗部・戸矢子両保庁宣正文」などと見え,戸矢子郷は便補保となったことから戸矢子保と称された(蜂須賀家所蔵文書/県史古代)この保はその後も生き続けた当初,現地の管理者である保司となったのが秀郷流藤原氏の足利有綱(戸矢子を号す)と考えられ,当保は有綱の妻(戸矢子尼)に譲られ,さらにその娘と考えられる加賀局が嶋津忠佐に嫁いだところから嶋津氏(下野嶋津氏)の所領となった(嶋津文書/県史中世3)南北朝期には嶋津道祐が当保を領した応永6年12月日の嶋津道祐等言上状によれば,戸矢子保内の梅沢村・千手村・寺尾村は嶋津氏譜代相続の地であり,永徳2年の小山義政の乱鎮圧の勲功として還補の御下文を賜り,相違なく知行していたところ,梅沢村は至徳年間に野田入道が押領し,千手・寺尾両村は高掃部助入道が闕所分だといって押領したと述べ,鎌倉府の裁許を求めている(同前)この3か村について,「嶋津氏系図」には,加賀局に「梅沢村・千手村・寺尾村等領主也」と注記されている(同前)なお,建武3年12月27日の光厳上皇院宣には,朝廷の官衙主殿寮の目録に「下野国戸矢子窪田保」が見える(壬生家文書/県史中世4)現在の栃木市西北部に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7280672