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栗須郷(中世)


鎌倉期~戦国期に見える郷名緑野【みとの】郡高山御厨のうち村名でも見える初見は徳治3年2月7日の関東下知状(東京国立博物館所蔵文書/県史資料編6)で「上野国高山御厨北方内大塚中□□□(栗須郷カ)預所前隼人正親鑒代道盛」と見え,当郷が上・中・下に分かれていたことが推定される同下知状によれば,大塚・中栗須両郷の預所摂津親鑒代道盛と小林入道道義跡を買得した一分地頭三善朝清の妻大江氏との間で初任検注および年貢のことで相論があったが,同年正月22日に和与したというその内容は,両郷内の大江氏の知行分について下地を五分し,二分は預所,三分は大江氏が知行することになっている下って,南北朝期の貞和5年8月28日の室町幕府執事高師直奉書(前田家所蔵文書/同前)によれば,「上野国高山御厨大塚郷内堀籠村田地小林七郎二郎重直跡,栗須郷瓜生右衛門六郎跡事」を小林中村弥次郎実達に沙汰付けするよう上野守護上杉憲顕に命じている次いで室町期の応永13年2月日の年紀を有する陀羅尼経奥書(浜名徳永氏蔵/県史資料編7)には,「上州一宮一切経掘(ママ)須(栗須カ)円通寺以唐本書写之」とある戦国期の永禄2年に集大成された「小田原衆所領役帳」の金山図書助の所領役高として「六拾貫文 上州下栗須・小林土佐分」と見える永禄6年5月10日の北条氏康・氏政連署知行充行状(安保文書/同前)によれば,「上州河北根本足利領内……栗須村内同岡分」などが安保晴泰・同泰通に宛行われているついで天正14年正月吉日の神明宮造営勧進帳(新町佐々木家文書/多野藤岡地方史各説編)には,表紙および指し出しに「中栗須郷神主」とあり,本文に同社が天正10年6月19日に神流【かんな】川の戦の余波を受けて焼失したため,7か郷の氏子によって建立されたことが記されており,その7か郷とは「中栗須郷」「下ノ郷」「岡ノ郷」「森ノ郷」「中村郷」「上ノ郷」「立石郷」であったこのうち「上ノ郷」は上栗須郷,「下ノ郷」は下栗須郷と推定されるこの神明宮は現在も温井川の右岸,藤岡市中栗須に鎮座しており,天正2年9月に宮内加茂太夫が記した神明縁起之覚(桐生市大出家文書/桐生市史)によれば,建久年間地頭高山遠江守が諸民の氷害の愁いをなくすため,文覚上人の勧めによって,内宮を「栗須村」,外宮以下の諸社をその近隣に建立し,それ以降氷害はおさまったというまた,宮内大夫藤原吉成の記した年月日未詳の神明宮縁起(同前)によれば,同社は建久3年に源頼朝が氷霰の災いをなくすため,内宮を「緑野(埜)郡栗須郷」,外宮を「本郷」に勧請して社領200町を寄進し,天正2年に至って高山遠江守が緑野郡中に対し同社の勧進を命じたと伝える郷域は現在の藤岡市上栗須・中栗須・下栗須一帯に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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