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下河辺荘(古代〜中世)


平安末期に下総【しもうさ】国葛飾【かつしか】郡(のちに武蔵国に属す)に女院御領として置かれた荘園名利根【とね】川縁辺に位置する所から称した名称である「和名抄」に擬定する郷名を欠くが,荘内の大河「太日川」と地形から相馬郡の「大井郷」にあてる説もある(地名辞書)荘内は,前林・河妻・赤岩・春日部【かすかべ】・桜井の5郷および平野村を含み(武文・金沢称名寺文書),荘域は二郷半から古河【こが】に至る古利根川東岸一帯で,庄内古川の左右の地とされ,県内では三郷【みさと】市から吉川市,松伏【まつぶし】・庄和・幸手【さって】・栗橋の諸町と春日部市の東部にかけての地域である成立は平安末期に鳥羽天皇第3皇女の八条院に付せられた寄進地系荘園によって形成されたものと思われる荘名の初見は「吾妻鏡」文治2年3月12日条の「下総国八条院領下河辺荘」で,この年下河辺荘は関東御知行国に属し,乃貢未済の荘の1つに挙げられていた同4年6月4日条には年貢納入に関し地頭の沙汰の条々について朝廷から勅答が寄せられており,下河辺荘など鎌倉政権下の各荘の年貢納入体制が弱体化していたことを示している同荘はのちに後宇多院領,やがて幕府領に属したらしく,建長5年には幕府は同荘の堤の修固を達し,奉行人に清久弥次郎保行ら4人を任命している(吾妻鏡)下河辺荘に重きをなした御家人は秀郷流の下河辺氏で,太田・小山氏と同族であった太田四郎行光の子の行義は八条院領下河辺荘に住み,下河辺藤三郎と号し源三位頼政に仕えたその子行平は下河辺荘司となり,治承4年源頼朝の挙兵にはいち早く従い,同年10月23日の論功行賞では元のごとく下河辺荘司を安堵されている翌5年志田義広が頼朝を攻め小山朝政と戦った時,行平と弟政義は古河や高野の渡しでその残党を敗走させた行平は弓術の達人としても世に聞こえ,頼家の指南役も勤めた弟政義も兄とともに活躍したが,河越重頼の婿だったために文治元年義経の縁者として処罰され,間もなく許された行平の孫行時は幸嶋四郎と称し,承久の乱には北条義時に従い宇治川で討死にしたその子行光も弓の名手として名高い(吾妻鏡)荘内春日部郷を領した春日部氏は実高が文治元年に壇の浦の戦いに従い功を挙げたが,宝治元年実景が三浦泰村に味方して一族とともに討死にし(同前),その孫重行は元弘3年以降新田義貞に従い,軍功を挙げて滝口左衛門入道となり,建武3年には「上総国山辺南部,下総国下河辺庄内春日部郷地頭職」の安堵について,後醍醐天皇の綸旨を得ている(武文)しかし同年6月重行が三条河原の戦いで敗れ鷺森で討死にすると,跡職は8月に若法師以下に与えられた(同前)これよりさき文永12年4月,下河辺荘前林・河妻両郷と平野村は金沢実時から妻の藤原氏(安達景盛の女)に譲られ,下河辺荘の諸郷村については藤原氏の死去後は惣領に継承さるべきことが述べられている(金沢称名寺文書)これによれば当時下河辺荘は金沢氏の所領となっており,永仁元年の「実検目録」では,前林・河妻両郷および平野村に次ぐ村々は「下河辺御庄下方内称名寺寺領村々」と称せられている赤岩郷の村々で,この年以前に金沢氏から称名寺に寄進されたものであろう作田数は35町4反小40歩,このうち小沙汰免1反300歩を除き定田は御佃3町5反90歩,所当田31町7反小10歩で,年貢所当額は反別4斗宛,合計155石6斗5升3合3勺であった正慶元年2月,金沢貞将は赤岩郷を不輸の地として称名寺に永代寄進した(同前)この赤岩郷は永享11年「上総国赤岩三箇村年貢米結解状」と文安2年「上総国赤岩十四箇村年貢銭勘定状」(同前)によると全体で17か村から成っており,現在の北葛飾郡松伏町の古利根川と庄内古川に沿った地域で,戦国期には赤岩新宿とよばれた宿駅ができており,市もたてられていた殷賑の地でもあった(武文)また応永26年9月15日の足利持氏御教書によると下河辺荘彦名河関は鶴岡八幡宮領とあり(相州文書),山王村東昌寺の鐘銘には「大日本下総州下河辺荘桜井郷六国山東昌禅寺大鐘 願主大旦那簗田河内守持資 時文明八年六月廿四日」(荘園志料)とあって,文明8年当時桜井郷は簗田氏の支配地だったことを伝えているこの後も簗田氏は下河辺荘内に大きな勢力を有し,天正年間に赤岩・川藤・吉川等に助縄の文書を残している(武文)近世以降,荘名は地理的・歴史的地名として伝えられ,現在に至った




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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