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稲毛荘(中世)


 平安末期~戦国期に見える荘園名。橘樹郡のうち。稲毛本荘・稲毛新荘に分かれていた。承安元年の武蔵国稲毛本荘検注目録(後欠)に「稲毛本御庄」とあるのが初見(宮内庁書陵部所蔵中右記裏文書/県史資1‐古842)。この目録によれば,「本田弐伯陸町陸段参伯歩〈平治元年御検注定〉」とあり,本田206町6反300歩は平治元年に検注されたもので,承安元年の検注で新田55町6反240歩(古作20町1反180歩・今年新田35町5反60歩)が加えられた。本田のうち除田(17町5反)を除いた定田(189町5反)の年貢は8丈絹1町当たり2疋で,379疋を絹織物で納めることになっており,当時この地方で絹織物の生産が盛んであったことを示している。除田の中には,中司(預所代か)の御佃(直営田)3町□反,当荘の開発領主と推定される下司の免田2町5反など荘官に与えられた免田のほかに,兵仕・夫領・皮古造などに与えられたものもある。皮古とは,皮籠とも書き,皮で周囲をはり包んだ籠のことで,当時,ものの運搬や保存のために使われた。皮古造とはそれを製造する職人のことで,こうした手工業者が兵仕・夫領と並んで免田を与えられていたことは,社会的に相当高い地位にあったことを示している(県史通1)。「井料田一町五段」とは,用水溝の費用を出すための田地で,当荘が多摩川に沿った低地にあったので,多摩川から水を引く用水が造られていたのかもしれない(同前)。また「春日新宮免二町」とあるが,これは後述するように当荘の本所が藤原摂関家の九条家であることから,藤原氏の氏神春日社を勧請したものと思われる。なお,「新編武蔵」によると橘樹郡宮内村(川崎市中原区宮内)には,嵯峨天皇の時,雨乞のため勅使宮内卿藤原某が下されたという伝説を持つ古社の春日神社があり,それ故に宮内という村名になったという。また春日神社には,応永10年5月の年紀のある鰐口があり,「武蔵立華郡稲毛本庄春日御宮鰐口」と記されている(新編武蔵)。この神社が前述の「春日新宮」の後身と推定され(県史通1),この付近が当荘の中心(稲毛郷)であったものと思われる。先の承安元年の目録のうち新田の除田としての記述に「神田一町二段〈稲毛郷鎮守両所六段,井田郷鎮守,田中郷鎮守三段〉」と見える。なお,このうち田中郷については「県史通1」では「□(小カ)田中郷」としており,当時稲毛本荘には,稲毛郷・井田郷(川崎市中原区井田)・小田中郷(川崎市中原区上・下小田中)があり,それぞれ鎮守社を持つ集落であったことがわかる。特に稲毛郷には2つの鎮守社があり,神田も倍の1町2反となっており,現在,地名は残っていないが,前述の春日神社のある宮内あたりが稲毛郷と推定される。これら3郷の名称は稲作に関連するものであり,新田の増加から推測すると当時水田の大開発が進行中であった(県史通1)。当荘の開発領主は明確ではないが,国衙の在庁官人でもあった西党の一族に当荘名を名乗った稲毛氏があり,また桓武平氏秩父氏の一族で小山田有重の子に稲毛重成がいる。重成は父有重の所領小山田荘(東京都町田市一帯)の北方にある小沢郷(川崎市多摩区菅,同市麻生【あさお】区細山・金程,東京都稲城【いなぎ】市坂浜付近)を所領としており(吾妻鏡元久2年11月4日条),鎌倉期になって当荘に勢力を伸ばしたとも考えられる。しかし,重成は元久2年の畠山重忠の乱に縁座して殺された。当荘の本所については,治承4年5月11日の皇嘉門院惣処分状で「いなけ本 新」が甥の九条良通に譲られており(九条家文書/平遺3913),良通の父兼実が娘宜秋門院に譲る所領を記した元久元年4月23日の九条兼実置文には,「一,女院庁分御領……武蔵国稲毛新庄 同本庄者,寄付山大乗院了,依故女院御願也,為充彼寺用耳」とあることから,稲毛新荘は宜秋門院庁分となり,稲毛本荘は故女院(皇嘉門院)の御願で兼実の弟の住した延暦寺大乗院に寄進されたことがわかる(九条家文書/県史資1‐258)。さらに建暦3年2月日の慈鎮和尚(慈円)所領譲状にも「大乗院領〈稲毛本庄〉」と見えて朝仁親王に譲られている(古文書集5/同前277)。ついで,承久3年8月30日の関東下知状で「武蔵国稲毛本庄」は,平家没官領であった「肥前国高来西郷」と相博されて,高来西郷が慈円の所領となっているが,本荘がどこの所領となったかは未詳(保阪潤治氏所蔵文書/同前293)。一方,稲毛新荘は,建長2年11月日の九条道家処分状に,前摂政一条実経の分として「武蔵国稲毛庄〈地頭請所〉」と見え(九条家文書/同前413),これは稲毛新荘のことと推定される。すなわち,宜秋門院から甥の九条道家へ,そして道家の子一条実経に譲られ,地頭請所となっていた。また稲毛新荘の荘域については明確ではないが,正中2年9月7日の関東下知状によれば「稲毛新庄坂戸郷内河面三郎跡屋敷之畠北之間々波多仁寄天参段,安芸尼跡中溝之北乃波多仁寄天田伍段,此内〈参段小有公事〉」などについての和与が認められており,坂戸郷(川崎市高津区坂戸)が含まれていたことが知られる。このほか時代は下るが,至徳元年7月23日の沙弥聖顕請文写(伊藤氏所蔵文書/県史資3上‐4961)に「武蔵国稲毛新庄内渋口郷」(川崎市高津区子母口【しぼくち】),永享11年8月12日の藤原藤寿丸寄進状写(津久井光明寺文書/県史資3上‐5988)に「武蔵国稲毛新庄領家方内木田見方郷」(川崎市高津区北見方)が見えており,稲毛新荘は稲毛本荘の西側に位置していたものと思われる。南北朝期,正平7年2月21日の足利尊氏袖判下文によれば,「武蔵国稲毛庄内坂土郷」が美作左衛門大夫(本郷)家泰に宛行われており,足利尊氏の支配下に置かれていた(本郷文書/県史資3上‐4136)。なお「太平記」には,正平13年新田義興を欺いて矢口の渡しにさそいだして自刃させた際の記述として,「江戸伯父甥が所領,稲毛ノ庄十二郷ヲ闕所ニナシテ則給人ヲゾ被付ケル」と記されており,当荘は江戸氏の所領であったという。前述の至徳4年7月23日の沙弥聖顕請文写によると,渋口郷を岩松国経に沙汰付けしようとしたところ,江戸蔵人入道希全・同信濃入道道貞・同四郎入道道儀らが城郭を構えて,沙汰付けできなかった旨が記されており,当荘内に江戸氏が蟠踞していたことが知られる。なお,年未詳7月19日のそあミふつ書状には「いなけと申候ところ□まかりくたり候か」とある(金沢文庫古文書/同前3527)。また,当荘内には栄興寺があり,深大寺の僧長弁の筆になる応永13年8月日の栄興寺再建のための勧進状の草案が伝わっている(長弁私案抄/続群28下)。一方,前述の永享11年8月12日の藤原藤寿丸寄進状写によれば,「稲毛新庄領家方内木田見郷」が鎌倉の桐谷宝積寺の塔頭豹隠庵に寄進されているが,この木田見方郷は,延徳2年6月24日の山崎重久証文には「稲毛庄坂戸郷木田見方」と坂戸郷内として見える(津久井光明寺文書/県史資3下‐6387)。その後,年未詳2月14日の上杉朝良書状では「木田見方雲竜庵分」が貯香軒に安堵されている(同前6440)。一方,戦国期の文明9年5月14日の関東管領家奉行連署証状には「武州□(稲)毛庄鞠児郷山王之参銭事」とあり関東管領上杉顕定は戦勝祈願のためこの参銭を浅草輪蔵寺に寄進しているが(仏日庵文書/同前6352),「鞠児郷」は,鎌倉期~室町期に見える丸子【まりこ】荘・丸子保にあたり,また,本荘・新荘の区別もなくなっており,当時「稲毛荘」はこのあたり一帯を指す汎称として用いられていたものと思われる。永禄4年8月6日の北条氏尭判物写にも「稲毛之内木月之郷」と見えておりこの推定を裏付けよう(諸州古文書/同前7248)。なお「北条記」によれば,永正7年上杉朝良は,北条早雲に通じた上田政盛を討つため神奈河の権現山城を囲んだが,このとき寄手の先陣は,「武州稲毛の住人田嶋」という者だったという(続群21上)。また,永禄12年武田信玄が北武蔵から江戸を経て小田原に攻め入った際,小田原北条氏の家臣で六郷に居住していた行方弾正は「稲毛・田嶋・横山・駒林等引率し橋を焼落し」と多摩川に架かる橋を焼き落としたため,信玄は「矢口の渡りを舟にて,稲毛の平間と云所へ渡り,稲毛十六郷を追捕す」とある(同前)。天正10年8月1日の年紀のある崇伝寺鰐口銘には「稲毛郷渋口遅川兵庫助作者」とあるが,これも汎称と考えられる(武蔵史料銘記集)。天正18年4月日の豊臣秀吉禁制(武文/県史資3下‐9761)が「武蔵国稲毛郷河崎六ケ村」に下されており,秀吉は,小田原攻めに際して当地を掌握しようとしたことがわかる。なお,慶長4年5月9日に書かれたという廊之坊(潮崎稜威主)諸国檀那帳に「一,武蔵国……いなき庄十八郷」と見える(那智大社文書/広島県史古代中世資料編5)。荘域は,現在の川崎市中原区西部から高津区東部にかけての地域と推定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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