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奥三保(中世)


鎌倉期から見える地名相模国愛甲【あいこう】郡のうち鎌倉期元亨3年のものと思われる北条貞時十三年忌供養記(円覚寺文書/県史資2‐2364)には「要木採用所々」として「相模国奥三保屋形山〈給主合田左衛門三郎入道〉,鳥屋山〈給主本間五郎左衛門尉〉」とあり,当地は材木用達の地であったことが知られるまたこの供養記に見える給主の合田・本間両氏ともに得宗被官であり,当地は北条氏の得宗領であったと思われる南北朝期の年未詳4月21日の将軍足利義詮書状(秋山吉次郎氏所蔵文書/同前3上‐4611)には「当寺舎利会料所相模国毛利庄奥三保内若柳・日連・牧野等事,故将軍家御寄進状一見候訖」と見え,当地内の3か村が足利尊氏から鎌倉極楽寺に舎利会料所として寄進され,極楽寺領となっていたことがわかる当地を毛利荘内の地とする考えもあるが,この時期には毛利荘は鎌倉覚園寺領であり,また地理的にも離れすぎていることからも,当地が毛利荘内の地であったとは考え難い戦国期においては文明10年3月,「鎌倉大草紙」に「敵の残党奥三保と云所に楯籠候太田道灌村山に陣を取舎弟図書助同六郎大将として奥三保へ馳向」とあるように(群書20),太田道灌との合戦に敗れた千葉孝胤・長尾景春らの残党は当地に立てこもり応戦したが,同14日の山中の合戦で太田方が勝利を収めたことがわかるその後,「妙法寺記」大永4年条に「此年正月ヨリ陣立初而二月十一日国中勢一万八千人立て猿橋御陣ニ而日々ニ御働,奥三方へ働箭軍アリ」と見え,この年正月北条氏綱は扇谷上杉朝興と合戦し江戸城を奪っているが,武田信虎は上杉氏に呼応して甲斐国猿橋から当地に侵入している(武田史料集)永正17年3月25日の泉蔵坊祐秀檀那分配状(米良文書/県史資3下‐6548)には「相州奥三保之事」として「十四ケ村,日影七(八)村,日向六ケ村之内与瀬村・同吉野村・同日野村・同佐野川村・同小淵村・千木郎村日向合六ケ村」と見え,当地は日陰8村と日向6村の合わせて14か村に分かれていたことが知られる当地はその後小田原北条氏の治下に入り,この辺りの在地土豪らは「津久井衆」と呼ばれたが,甲斐国との境に位置したため,この地の多くは小田原北条氏にとっては支配が完全に及ばない「敵知行〈半所務〉」の地であった「役帳」には小田原北条氏津久井衆の所領役高として当地内の日向之村,千木良【ちぎら】村61貫700文,与瀬村58貫940文,吉野村25貫500文,沢井村12貫文,佐野川村19貫300文,小淵村10貫文が記されているまた増加して14か村から成る当地内の日陰之村における津久井衆の所領役高としては,日連村28貫200文,那倉之村13貫文,牧野之村46貫文,青根之村4貫文,鳥屋之村23貫80文,青山之村19貫500文,若柳之村35貫220文,三加木之村15貫300文,中之村16貫文,長竹之村3貫文,大井村15貫文が見えるなお「新編相模」の日連村の項には,同村内の蔵王権現社に古鰐口があり,それには「相州奥三保日連村金峯鰐口一口」「応安七年〈甲子〉八月日施主藤原友守」という銘が見える




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7302683