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米町(中世)


鎌倉期~戦国期に見える町名相模国鎌倉郡のうち「吾妻鏡」建保元年5月2日条に,「又武田五郎信光,於若宮大路米町口,行逢于義秀」と見え,和田義盛の乱の際,武田信光が朝夷奈義秀と当地で行きあったことおよび「米町辻」で戦いのあったことが見えるまた同書5月4日条にも波多野忠綱が2日の「米町并政所」などの戦いで先登を進んだことを主張しており,「米町合戦」と称されている「吾妻鏡」仁治2年12月27日条にかつての合戦に言及した記事が見えるが,信光については「通若宮大路東頬米町前,向由比浦方」と記されている東頬とは若宮大路の東側ということで,津久井串川光明寺所蔵の室町期の絵図によれば延命寺橋付近から家並みがはじまっており,米町はこの絵図に示される大町大路の内側すなわち北方面に位置したものと思われる(鎌倉市史総説編)ちなみに,「若宮大路米町口」とは若宮大路から米町へ行く口,「米町辻」は大町大路と小町大路の交差点のことと思われる(同前)「吾妻鏡」寛喜3年正月16日条によれば「米町辺」より出火し「横町」まで延焼しているまた,同書寛元4年12月28日条によれば,紀伊重経が丹後国の所領の年貢を持ち逃げした郎従を追って御所に乱入するが,その郎従を見かけた場所が「米町辺」であったという建長3年12月3日鎌倉幕府は鎌倉内に散在する小町屋や売買の店を設けることに一定の制限を加え,「鎌倉中小町屋之事被定置処々」として大町・小町・米町・亀谷辻・和賀江・大倉辻・乗(ママ)和飛坂山上の7か所に許可している(吾妻鏡)また文永2年3月5日にも同じく,大町・小町・魚町・穀町・武蔵大路下・須地賀江橋・大倉辻の7か所と定めているが(同前),ここに見える「穀町」を米町とする説もある(鎌倉市史総説編)正嘉2年7月19日の小早川茂平譲状案によれば「譲与 息男政景分所領事……一,鎌倉米町在家一宇跡〈宗次入道居住跡〉」と見え,小早川茂平(本仏)から子政景に譲られた所領の1つであった(小早川家文書/県史資2‐474)以後,小早川氏の代々の所領として伝領され,正応2年2月16日の小早川政景譲状で同地が子政宗に譲られ(同前1064),建武5年2月24日の小早川景宗譲状では「鎌倉米町屋地」が重景に(小早川家文書/県史資3上‐3353),貞治2年6月29日の小早川重景譲状でも同地が重宗に譲られている(同前4463)米町の在家が屋地とほぼ同一であること,在家が家屋と土地をも含むものであることなどが知られる以降同地は室町期の応永5年5月13日小早川仲義から弘景に譲与され(同前5211),同7年2月9日に再度譲与された(同前5260)応永21年4月11日の小早川則平譲状写には「〈不知行〉一,鎌倉米町一所」とされ,小早川氏は当時,鎌倉米町の支配を事実上放棄した状態であったことが知られる(同前5471)応永34年11月10日と正長2年7月20日の小早川弘景譲状では再び「鎌倉米町屋地」と見えているおそらく権利の主張にすぎないと思われる(同前5792・5834)宝徳2年正月29日に当町は小早川盛景から又四郎(弘景)に譲与されているが,以後の譲状に当町名は見えない(小早川家文書/県史資3下‐6087)なお「旅宿問答」によれば,上杉禅秀の乱の際,応永23年10月4日千葉兼胤らが「米町面」に陣している(続群33上)また明応6年7月25日の善法寺分年貢注文にも「二百十坪〈寺之給〉〈年貢〉八百四十文〈米町〉浄本百四十坪〈米町日常物屋〉三郎次郎廿五坪〈同〉同人 合百六十五坪六百六十文」などと見え,地内の善法寺の寺領があり,多くの商人がいたことなどが知られる(津久井光明寺文書/県史資3下‐6410)江戸期の大町村の小名に米町があり,現在の鎌倉市大町1丁目のうちに比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7303449