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毛利荘(中世)


平安末期~戦国期に見える荘園名相模国愛甲【あいこう】郡のうち森荘とも書く「吾妻鏡」治承5年正月18日条に「相模国毛利庄住人僧印景」が見え,これ以前に立荘されていたものと思われる立荘時期は未詳であるが,「尊卑分脈」「平治物語」などによれば,平安末期に源為義の弟の義隆は森冠者と称し,当荘を支配していたという一方,当荘は平安末期~鎌倉初期の武士毛利景行の名字の地で,当地を支配した開発領主の一族かと思われるが,詳細は不明荘園領主についても不明であるが,文亀3年9月10日の石楯尾神社棟札銘写に「相州毛利庄,大和国春日太明神御領也」と見え(相文5),春日大社であった可能性も考えられる建久5年8月8日,源頼朝が日向薬師に参詣する途中,大江広元は下毛利荘で頼朝を饗応しており(吾妻鏡),下毛利荘は大江広元の所領になっているが,上毛利荘についてはこの時期の史料には見えない「寛政譜」は「治承四年頼朝将軍の招きにより関東に下向し,のち相模国愛甲郡毛利庄を宛行はる」と伝えるその後,広元の子孫は毛利氏を称した(大江氏系図/続群7下)戦国大名毛利氏はその子孫上毛利荘については,戦国期天文11年12月吉日の光勝寺鰐口銘(新編相模),永禄2年2月10日の日月神社棟札(同前)に見えるのみで,詳細は不明宝治元年9月16日「毛利荘山中有怪異等,毎夜成田楽粧之由,土民等言上」したという(吾妻鏡)南北朝期に入ると,観応2年正月6日沙弥石塔義慶注進状写に「上杉戸部(憲顕)立鎌倉上野国下向,同月廿五日,高播磨前司(師冬)鎌倉没落,同日夜半毛利庄湯山著」と見え,観応の擾乱の舞台,いわゆる「湯山事件」の地でもあった(醍醐寺報恩院蔵古文書録乾/県史資3上‐4058)観応2年7月22日の関東管領上杉憲顕奉書によれば,同年5月13日当荘内の厚木郷半分が円覚寺正続院に寄進されたが,円覚寺正続院と相模守護三浦高通代官との意見対立があったことがうかがわれ(岩田佐平氏所蔵/同前4077),翌3年に至るまで数度の遵行状が出されている(円覚寺文書・喜連川御書案留書・黒田太久馬氏所蔵/同前4080・4149・4157・4158・4159)同年6月18日の足利尊氏御教書に,鶴岡八幡宮雑掌が円覚寺正続院の知行を妨げていることがわかるので,守護方は八幡宮に加担していたことが想像される(正宗寺文書/同前4169)貞治3年12月2日相模守護三浦高通禁制写によれば厚木郷は円覚寺領とされている(集古文書/同前4523)しかし応永8年5月15日関東管領上杉朝宗問状に鶴岡八幡宮方から明け渡すように要求があったことを伝えている(瑞泉寺文書/同前5290)一方,建武5年と推定される閏7月13日の夢窓疎石書状に「崇寿寺領相州厚木郷事」と見える(瑞泉寺文書/同前3376)崇寿寺領は「厚木郷下方」と称された地で(黒田太久馬氏所蔵/同前4159),厚木郷は円覚寺正続院領と崇寿寺領に二分されていた当荘にはこの厚木郷のほか,妻田・散田・荻野郷,奥三保・一色村・飯山郷などが含まれていたこのうち妻田・散田・荻野郷は鎌倉覚園寺領であり,観応3年6月13日足利尊氏は「覚薗寺領相模国毛利庄内妻田・散田・荻野郷等」に殺生・狼藉・竹木伐採などに関する禁制を発している(相文/同前4167)至徳3年6月15日,官宣旨によって「妻田・散田・荻野,同真広名」は覚園寺領であるため「伊勢太神宮役夫工米,造内裏・御願寺・斎宮以下勅事,院事,棟別・段銭・押書・五月会炭役・大小国役,国司入勘并国郡及甲乙人妨,寺領内山野狩漁等」の諸役が停止されている(覚園寺文書/同前5008)また南北朝期と推定される年未詳4月21日の将軍足利義詮書状によれば,「相模国毛利庄奥三保内若柳・日連・牧野等」は鎌倉極楽寺の「舎利会料所」であった(秋山吉次郎氏所蔵/同前4611)これ以前,元徳3年2月日の伊豆走湯山東明寺鐘銘に「大工相州森庄一色村和泉□(権カ)守常盛……明徳三秊壬申十一月廿六日書之」と追刻されている(同前2‐2951)永享7年6月6日の鎌倉府政所執事二階堂盛秀書状写によれば,上総国菅生荘梁郷の住人鋳物師和泉権守藤原光吉が鎌倉府政所の造営を命じられた時,当荘内飯山郷の住人森左衛門次郎国吉もこれを助けて当役を勤仕するように命じられており(房総古文書/県史資3上‐5905),当荘内に鋳物師が居住していたことが確認されるまた,飯山郷内の飯山寺(飯山新長谷寺)には嘉吉2年卯月5日鋳造の古鐘があり,「相州愛甲郡毛利庄飯山新長谷寺廼観自在応現之勝地,行基師再興之霊場也」と刻まれている(日本古鐘銘集成)文安5年11月21日,室町幕府は京都泉涌寺雑掌に対して末寺鎌倉覚園寺領「毛利庄内妻田・荻野両郷」などを沙汰付するように鎌倉府に命じている(相文/県史資3下‐6072)覚園寺が本寺泉涌寺を通じて寺領安堵を幕府から得たものと思われる翌年2月7日には後花園天皇が綸旨を下して,覚園寺が当郷知行を全うして御祈祷を専らにすべきことを命じている(覚園寺文書/同前6075)戦国期には,永正14年12月18日の賀陽院大光明寺領諸国所々目録案に「一,相模国毛利庄内原⊏⊐郷半分事」と見える(田中教忠氏旧蔵文書/広島県史5)このほか,天文11年の光勝寺鰐口銘写,同17年11月の不動堂童子像銘写,永禄2年2月10日の日月神社棟札写,天正3年の三社明神棟札写,同年2月吉日の住吉社古神殿書写などに毛利荘・上毛利荘・森荘などの記載が見られるが(新編相模),荘園としての実体はすでに失われていたものと思われる天正18年4月日の豊臣秀吉禁制写に「相模国大中郡之内森の庄」と見える(相文/県史資3下‐9745)この禁制は林村(現厚木市林)に出されたものであり,このほかに同日付の豊臣秀吉禁制が当荘域に含まれる「相模国大中郡あつき」(相文/県史資3下‐9744),「相模国大中郡讃多村」(同前9746),「相模国大中郡荻野村」(同前9747)にも発給されているので,林村が当荘の中心であったものとも思われるが詳細は不明慶長7年2月吉日の最勝寺本尊再興願書に「相州愛甲郡森荘厚木郷金山最勝寺」と見える(最勝寺文書/相文1)現在の厚木市北部および愛川町南西部に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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