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柳下郷(中世)


平安末期~室町期に見える郷名相模国足柄下郡のうち初見は治承4年12月28日の源頼朝下文(尊経閣文庫所蔵文書/県史資1‐古1076)で,「下 聞養房覚淵所 可早免除柳下郷条々公事等之事」と見え,当郷が御祈祷所のため公事を免除するとあるなお年月日未詳の密厳院寺領注文(醍醐寺文書/同前3上‐5214)には同寺領として「柳下郷」が見え,治承3年12月28日に源頼朝から寄進された旨の注記がある小野系図(武蔵七党の1つ)には横山義隆の子資隆に関し,「八幡殿源陸奥守長元元年戊辰十月於相模国柳下生給之時,資隆卿御引目之役仕」と記されている(続群7上)治承6年10月13日の源頼朝下文(尊経閣文庫所蔵文書/県史資1-18)には「下 楊木下百姓等所」と見え,万雑公事を停止しており,また年未詳4月12日付の源頼朝判仲慶奉書(同前19)では,「楊下船」について妨げを停止する下文を出したこと,この御教書を酒匂太郎跡に残すべきことなどが記されているが,いずれも検討の余地ある文書とされている「吾妻鏡」建久3年8月9日条には,北条政子の安産祈祷のため神馬を奉納し誦経を修させた神社仏寺の1つとして「賀茂〈柳下〉」が見えるこの賀茂社は戦国期に賀茂宮郷と見える地に鎮座しているもので,現在の小田原市鴨宮付近が当郷のうちに属したことがわかる嘉禄3年2月12日の将軍藤原頼経袖判下文(尊経閣文庫所蔵武家手鑑/県史資1‐307)では,越後房覚意が師匠法眼覚与から譲られた所職所帯を安堵されている中に,「密厳院下御所地安坊堂本尊・聖教・道具,相模国柳下郷」が見える貞和2年閏9月7日の雑掌澄宣請文案(三宝院文書/同前3上‐3771)は走湯山密厳院が鶴岡八幡宮修造段銭の賦課を免れる目的で作成されたものであるが,それには「就中至柳下郷者,為丸子流末之間,田畠共以令崩失」と見えるそのため走湯山の神用も減少し,「当郷鎮守賀茂・八幡両社」の神祭物等も同様の状態にあり,流失のことは当郷が海道路次であるから隠れなき事実であると述べられているこれによれば,当郷は酒匂【さかわ】川の氾濫原にあって,田畠が流失していること,東海道に面していることがわかるまた当郷の鎮守とある八幡社は小八幡の地にある八幡社をさすとみられるなおこれより先,13世紀半ば頃成立とされる「源平盛衰記」には,治承4年8月の石橋山合戦に際し,和田義盛の軍勢が酒匂の宿に着いたところ,「丸子河ノ洪水イマタヘラサレハ,渡ス事叶ハスシテ,宿ノ西ノハツレ,八木下ト云所ニ陣ヲ取,洪水ノヘルヲ待」と見え,また大庭景親に従った武士の中に八木下五郎の名が見える(県史資1‐古918・926)この八木下は柳下のことである応永5年6月の密厳院領関東知行地注文(三宝院文書/県史資3上‐5213)にも当郷が見える戦国期の「役帳」には小田原北条氏小机衆笠原平左衛門の所領役高として「十八貫文 西郡柳下」と見える元亀2年4月晦日の北条家朱印状写(諸州古文書/同前3下‐8038)では,正木棟別の納入額について,「参貫八百五十四文 酒勾・柳下共ニ毎年納辻」とあり,「酒勾・柳下百姓中」に対し38俵1斗9升の麦で納入するよう命じている現在の小田原市鴨宮・酒匂・小八幡付近に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7305340