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太田保(中世)


鎌倉期から見える保名新川【にいかわ】郡のうち南北朝期以降は太田荘ともある石川県白山比咩神社蔵の「白山宮荘厳講中記録」に,建保3年正月の頃,蔵人所絵師覚賢が描いた白山神像について「供養以後越中国大田ニ相知女房ニヒホクムテ,可令施入之由申遣ニ月障未過七日女房染糸,向台クミヲスルニ忽種々ノ奇特現リ」とあるのが初見(県史中)近世の,太田保に該当する領域はおおよそ富山藩領で,富山市街の東を流れる鼬【いたち】川の西,松川(旧神通【じんづう】川)の南,熊野川の東(ただし文殊寺・黒牧・福沢を含む)の72か村であり,これに太田保内蜷川郷3か村,八川郷6か村,熊野郷9か村,三室郷3か村,さらに加賀藩領太田荘35か村以下太田荘三室郷3か村,八川郷5か村を加えた合計136か村の地域がほぼ中世の太田保であったと思われる山間部については不明部分が多く,常願寺【じようがんじ】川扇状地および熊野川谷筋は時期によって変遷があったのかもしれないが,太田保に属していたと思われる応永5年12月17日の越中守護畠山基国遵行状によれば,「東岩蔵寺領越中国□□(太田カ)保内富山郷 太田小次□入道跡事」とあり,富山郷が太田小次郎入道の旧領であったことがわかる(相州文書/県史中)この太田小次郎は文永から建治年間越中に所領や寺院を経営していた下総国(千葉県)住人太田乗明の子孫であろう(太田禅門許御書/県史中)「吾妻鏡」建長2年3月1日条に見える「越中大田次郎左衛門尉」もこの太田氏に関連する者であろうこのように,太田保には鎌倉御家人らの所領が形成されており,金沢文庫所蔵「御影供導師次第」紙背の某書状に「大田ノ保」とある(県史中)また,正中2年11月日の大江顕元安堵申状案によれば,「亡父覚一拝領之地越中国太田保内赤田村者,申付中務丞元長,布瀬村者,譲給四郎元忠」とあり,太田保内の赤田・布瀬両村が大江支族に相伝されていたことがわかる(金沢文庫古文書/県史中)「後愚昧記」永和3年(天授3年)7月13日条によると「去月於越中国,国人与守護代合戦,国人等多被討取了,守護方乗勝之間,国人等被討漏之輩,逃籠武蔵守所領太田庄之処,守護勢寄来,而猶討殺余党輩,又焼払庄内了」とあり,この年6月に守護代斯波義種と国人との間で合戦があり,敗れた国人勢の残党が武蔵守細川頼之の所領であった太田荘に逃げこもったこのため越中守護斯波義将勢が当荘に攻め寄せ,国人等の残党を討ち荘内を焼き払ったこの結果領内を侵犯された頼之は忿怒し,当荘の代官篠本某を下向させて守護勢に対抗させたことが知られる(後鑑所収/県史中)これ以後,戦国期に至っても細川氏の知行権の主張が見られるが,多くは太田保と記されている大永頃から享禄年間にかけて細川氏は高国と晴元の間で対立抗争しており,本願寺および一向一揆の兵力がこの抗争に巻き込まれ,その過程で本願寺の家宰下間実英が知行しようと企てたりしている(今古独語/県史中)以後太田保は,一向一揆・細川氏・長尾氏・在地土豪の争乱の場となる永正年間細川高国が実権を握った幕府は,同9年5月15日,太田保内に徳政を許可している(室町幕府奉行人連署奉書案・古文書/県史中)同13年と推定される10月13日の細川高国感状によれば,「去八月十六日越後衆,当保乱入之処,於文珠寺令防戦被底之由,注進到来,神妙候也」とあり,この年8月越後から侵入した長尾為景を文殊寺で防戦した上野彦次郎に対し,高国はその戦功を賞している(上野竹雄氏所蔵文書/県史中)永正16年(推定)2月2日の長尾為景書状によれば,細川高国の被官上原左衛門大夫が調略にあたり,越中一向一揆制圧のために守護畠山氏や長尾氏と共同謀議を凝らしている(上杉文書/県史中)同17年(推定)12月22日の長尾房景宛ての同為景感状によれば,越中に出兵した為景が太田荘に在陣していた神保慶宗・遊佐弥九郎・椎名・土肥氏を攻め,慶宗以下その一族被官の首数数千余を討ち取ったとある(同前)天文年間には,一向一揆の支配するところとなっていたが,細川氏との関係は残っている「証如上人日記」天文20年7月3日条によれば,証如が太田保のことについて細川晴元へ返書を出しており(石山本願寺日記上巻/県史中),この書状は「証如上人書札案」天文22年に収めてある6月16日の証如書状にあたるものと思われる(石山本願寺日記下巻/県史中)年未詳2月5日の細川晴元書状案によれば,太田保のことについて高畠甚九郎を下向させた由,勝興寺に連絡をしている(勝興寺文書/県史中)また,「証如上人日記」天文21年4月23日条でも「又以別札越中太田保事勝興寺,瑞泉寺へ申下候者,可為祝着之由候」とあり,勝興寺・瑞泉寺が太田保に関与していたことがわかる同日条には,細川氏綱へ太田保について返書を出したことが記されており(石山本願寺日記下巻/県史中),この書状は「証如上人書札案」天文23年に収めてある4月23日の証如書状にあたるものと思われる(同前)永禄年間に上杉輝虎は越中東部にいた椎名泰胤と結んで越中攻略を展開していたが,永禄3年3月日の北条高広・斎藤朝信連署制札によれば,太田上郷道場門前での越後州諸軍の濫妨を禁止していることがわかる(玉永寺文書/県史中)一方顕如は,太田保につき尽力する旨足利義昭に答えている(永禄12年6月23日顕如書状・石山本願寺日記下巻/県史中)元亀3年5月24日の加賀の一揆勢との交戦状況を注進した鰺坂長実書状によれば,太田本郷に陣が置かれ,西南部の丘陸地帯に船倉【ふなくら】などの城塞が築かれて,井上肥後らの部将が配置されていた(上杉文書/県史中)元亀4年3月5日の上杉輝虎書状では,加賀・越中の一揆勢を富山へ追入れ,稲荷・岩瀬・本郷と押し進め,神通川以東を制したという(同前)この「本郷」は「太田本郷」を指すものであろうまた同年4月晦日の吉江喜四郎宛ての河間長親書状によれば,武田信玄の死の間違いないこと,自らは「本郷」へ出兵していること,魚津【うおづ】城の普請等について記している(吉江文書/県史中)天正元年10月19日の上杉謙信判物案によれば,「太田之上郷」は村田秀頼に,「太田下郷」は河田長親にそれぞれ料所として申付けている(上杉文書/県史中)天正6年織田信長が飛騨経由で斎藤新五を越中に送るとともに,太田保は織田信長と上杉景勝の決戦場となり,上杉方は津毛城(現在の大山町東福沢の通称津毛山)に椎名小四郎,河田長親を置いたが斎藤新五に攻略されているその後,今泉に陣取った上杉方と太田本郷の織田方とが月岡野に戦ったが,織田方の完勝であった(信長公記/県史中)同年10月11日の織田信長朱印状では,斎藤新五に宛て,河田長親の討滅を指令し援軍を出しているが,その中に「河田至大田面罷出候由,幸之儀候間,此時為可打果」とある(斎藤文書/県史中)同年12月10日の織田信長印判状によれば,信長は加藤・黒尾・野上・小林の知行地を除く太田保を椎名駿河守に宛て行っている上記4名は大田保の土豪であるが,信長によしみを通じていたのである(諸旧記抜萃上/県史中)ところで文明6年4月2日刻名のある新湊市専念寺銅鐘は神仏分離の際,明治4年に雄山神社前立社壇から加賀藩庁の許可を得て1,500貫文で購入したものであるが,鐘銘によれば,この鐘は本来太田保面白寺のものである面白寺は鐘鋳造の願主立山寺(雄山神社前立社壇)院主明舜法院の開いた天台寺院であり,現存しないが,寺跡が文殊寺奥の高台にあり,大五輪塔2基と一石五輪塔数基が見られる面白寺と雄山神社は一体のものであるが,文珠寺など熊野川筋の村々は飛騨方面からの立山入山者の経路にあたっていて,結びつきが濃かったのであろう現在の富山市大田を中心とする一帯か




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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