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岡成名(中世)


南北朝期に見える地名射水【いみず】郡西条郷のうち近江佐々木(朽木)氏の所領正慶元年(元弘2年)9月23日の関東下知状案(朽木文書/県史中)に,「越中国西条郷内岡成名田畠」と見えるのが初見同下知状案に,佐々木氏の岡成名獲得の経緯が,「当名者,足利尾張三郎宗家跡地,(佐々木)義綱為召捕悪党人之賞,嘉元二年十二月二日令拝領訖」と述べている義綱以来佐々木氏の所領であった岡成名は,鎌倉末期に義綱の長男時経の代に至って,在地土豪岡成氏の台頭によって蚕食・押領され,佐々木氏の地頭代を通じての岡成名の支配は同下知状案に,「(岡成)景治,友景伺雑給之隙,僅避出田地陸段,以残田畠在家,号市安,松重名押領」という状態に陥っていた佐々木時経・代官明祐と岡成景治・友景との相論の争点は,市安・松重名が岡成名内に含まれるか否かであった明祐は,景治・友景の市安・松重名は岡成名内に含まれないとの主張が非法であることを以下の5つの理由を掲げて主張した第1の理由,景治・友景が証拠として提示した本領主盛景の建長2年12月17日譲状・文永6年12月10日取帳は,「就件譲状,土帳等,未賜安堵下文,又不預下知状」である第2の理由,正応2年4月11日以後松重名地頭宛てに京都大番役が宛て課されているとの主張は,「如大番催促状者,又松重為岡成名外之段,曽無支証」であり,安貞年中に景治の曽祖父時景が,越中守護北条朝時に所領を寄付し,その子孫が地頭代に補せられているとの主張は,「近年為称御家人,恣誘取守護代状歟,敢難許」である第3の理由,景治の提示した市安・松重名の本御下文は,「無正文之間,輙不能信用」である第4の理由,足利宗家の息又三郎宗氏に尋ねた結果,宗家は承久の乱の時北条朝時に帰属し,安貞年中に岡成名を朝時に寄付して代官職に補任されたが,所務については「(岡成)為治子息代々」に宛文を賜わって所務を行わせていたもので,足利氏は直接には岡成名を領掌していないので,証状は帯していないとのことであり,「田地陸段之外,無寄進儀之際,不可有余剰之由,景治等称申之状,頗可称矯餝」である第5の理由,景治・友景は相論の裁許が決する以前に帰国してしまい,数度の召喚命令を無視している同相論は,前述の明祐の主張が認められ,時経・明祐方の勝訴となり,「然則於彼市安,松重者,為岡成名内,宜被付于時経……此上停止彼輩之,可被渡時経」との裁許が下され,時経の岡成名の一括領有が安堵された同年11月2日の関東下知状案(同前)でも,岡成名の市安・重松名の領有をめぐる佐々木時経・代官明祐と在地土豪重松景朝・景式との相論に関しても,明祐の主張が認められて時経の岡成名一括領有を安堵する裁許が下されている同年12月27日の佐々木時経代明祐言上状案(同前)では,岡成景治以下の輩が押領している岡成名内松重・市安名以下の田畠在家などを御使に仰せて打渡させてくれるように要請されている同2年(元弘3年)9月23日の後醍醐天皇綸旨(同前)でも,「当国(越中)岡成,市安,松重等名濫妨事,左兵衛尉時経申状□副具状,如此,子細見状歟,可被沙汰居雑掌者」ことが越中守中院定清に命じられている応安5年10月17日の朽木氏綱契状(同前)で氏綱は,部田・岡成両名地頭職の本御下文,当代(足利義満)たびたびの御教書・御施行状等を近年の動乱のために両名地頭職が不知行になっているため,「先立任契約状,彼土貢参分一於被去出,残於三分二者,可有知行候」との条件で兄の出羽(朽木)氏秀に渡しているこのことは,「朽木氏系譜」氏秀の項(県史中)にも,「同(応安)三庚戌年十月十七日,依舎弟氏綱譲,越中国,郡不知,部田名,岡成名領地仕候」と記されている




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7317829