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黒谷郷(中世)


鎌倉期~戦国期に見える郷名越前国大野郡小山荘のうち平安期の参議藤原成通私領は,小山荘となったのちも成通子孫が領家職を有していたが,成通の孫経通は勤めを果たす必要から,文暦年間春日社に八講料として寄進したという(書陵水野家文書)しかし弘長2年4月,当郷は経通の子の円雄が興福寺で修行する資縁として,円雄に与えられており,このときが当郷の史料上の初見となる(同前)嘉元4年6月12日の昭慶門院所領目録では同院支配の安楽寿院領小山荘について「円雄法印御年貢二万疋,円雄知行分万疋別納也」と注記されており,円雄が黒谷郷などを支配していた頃の様子を示している(竹内文平氏所蔵文書)ただし嘉元4年8月6日「黒谷郷飯西」は北畠師重に与えられていたなおこの記事から飯西(飯雨・飯降【いふり】)は黒谷郷に含まれていたと考えられる鎌倉末期の嘉暦3年3月10日「小山庄内舌・黒谷〈在深江〉・新宮地・飯雨」の預所職は地頭伊自良知綱の代官信昭が保証人となって,5か年の間大輔房重英に預けられている(京大一乗院文書)小山荘の他の郷の領家職が貴族に移ったり,地頭請となったなかで,黒谷と舌は成通子孫の興福寺円雄,さらに興福寺浄名院・春日社へと伝えられて,室町期永享12年4月の小山荘田数諸済等帳案においても「御知行分根本之郷」と注記されている(天理保井家古文書)同帳によれば,黒谷領家方は田地5町で年貢52石2斗6升,御服31両,カラ苧34両,夫賃9貫文・天役銭5貫文・帷代1,500文を負担し,また地下に与えられる分として猿楽禄・蔵付・春日神田・ソノ峰神田があるが,他の郷と違って田地が特定されていなかったため近年は年貢米のうちから4石を差引くという定めであったという戦国期には,永正元年12月25日の宝慶寺寺領目録に「黒谷公文名」「黒谷領家方之内布薩田」があり(宝慶寺文書/大野市史社寺文書編),享禄3年2月の崇聖寺寺領目録にも「黒谷久清名内半名」などが記されている(洞雲寺文書/同前)永禄12年6月16日の宝慶寺寺領目録には黒谷村として13石1斗の年貢米があり,そのうち9石が公文名の年貢である(宝慶寺文書)天正13年12月14日に中夾【なかばさみ】専西寺が伊勢一身田専修寺へ帰参を許されたときの門徒惣代請文には「惣代黒谷智道」が署名している(専修寺文書)しかし天正19年6月14日にはこれら門徒たちは専西寺を離れることを専修寺に誓っており,そのなかには「黒谷村名代法幸」も見える(同前)江戸期には上黒谷村・下黒谷村となった

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7330954