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下方(中世)


鎌倉期から見える地名駿河【するが】国富士郡のうち駿河湾に注ぐ潤井【うるい】川左岸に位置する富士下方・下方荘・下方郷ともいい,上方に対する地名寛元2年12月2日の関東御教書に「富士下方内諸社供僧職事」「富士下方政所代兵衛六郎殿」とあるのが初見(貞応弘安式目/鎌遺6413)富士下方内の諸社供僧に関する諸規定が定められている下って南北朝期の康安2年5月28日の今川範氏充行状によれば,闕所地である富士下安主名半分が伊達右近将監に充行われている(駿河伊達文書/大日料6-24)また応永3年10月18日の年紀をもつ妙貞寺鰐口に「富士下方和田寺」と見える(神奈川県文化財調査報告)応永24年閏5月7日の今川範政宛足利義持御内書写(今川家古文章写/駿河の今川氏4)によれば,上杉禅秀の乱鎮圧の功によって今川範政に富士下方が与えられている次に享徳4年3月15日の今川義忠安堵状によれば,下方の滝泉寺円滝坊跡および富士大別当跡が富士若丸に安堵されているが(旧富士別当宝幢院文書/県史料2),これは永享7年10月20日に富士別当跡が義忠に預け置かれたことと(同前),下方が今川氏の所領であったことに基づくと考えられる戦国期に入り,北条早雲が今川竜王丸(氏親)を今川氏の家督につかせた功によって下方を与えられたという「今川記」に「伊勢新九郎今度の忠功莫大なりとて,富士郡下方庄を給り,高国寺の城に在城なり」とあるなお別本「今川記」には「伊勢新九郎入道に下方十二郷を給はり」とあり,今日この12郷の名は明らかではないが,下方は郷を含む広域地名であったことは明らかである下方の支配権は一説には永正16年頃に北条早雲から今川氏親に返されたとあるが,下方における今川氏発給文書は天文元年9月19日の今川氏輝判物まで待たねばならないので,氏輝の時代,なお厳密にいうと,天文6年5月15日の今川義元判物でも下方付近の田中の名職を抱えていた渡辺三郎左衛門が北条氏領内へ退去していることが見えるので,天文6年から同22年まで続く,いわゆる河東一乱(河東をめぐる今川・北条氏の争い)が終結する時期まで,この一帯の今川氏の支配権は不安定であったと考えられるこの間に今川義元は,天文8年正月18日に井出駒若に下方の山田次郎兵衛恩給名職を充行い(狩宿井出文書/県史料2),天文12年7月15日には下方の横尾郷善得寺領内の氏方100貫文・米方250俵分を臨済寺(現静岡市)に寄付する(臨済寺文書/県史料2)など着実に支配権を確立していった子息氏真の時期には,その支配は一応安定したが,永禄11年の武田信玄の駿河侵攻により,氏真は没落し,下方の支配は,今川氏の救援を口実に侵入した小田原北条氏の手中に一時入る永禄11年と推定される12月24日付北条家朱印状によれば,下方や須戸(須津)の郷村に対して,軍需品徴発が命じられ(矢部文書/県史料2),永禄12年11月13日には下方の五社惣別当である東泉院へ北条氏政の判物が出され,その寺領が安堵されている(浅間神社蔵旧東泉院文書/県史料2)徳川氏時代に入ると,当地や付近の厚原・久爾などの一帯でも新田開発が進行した模様で,天正15年2月20日の徳川家康朱印状では新田開発の諸規定が定められ(植松文書/家康文書上),天正16年9月28日の同朱印状では掛樋の設置のため,名主植松右近に20貫が補助され,開発が促進されたことが知られる(同前)この開発の進行する中で,当地はその範囲の縮小化が進んだようで,天正18年12月28日の豊臣秀吉朱印状(六所家蔵旧東泉院文書/県史料2)や江戸初期の慶長9年3月9日の徳川家康朱印状(同前)には下方郷と見える江戸期は地内の村落が自立し,元和年間までは下方荘の名称は残るが,それ以後は見えないなお,この一帯は富士浅間宮との関係が深く,富士大宮風祭神事などの課役が課された地域でもあった(旧四和尚宮崎氏文書/県史料2)また「米良文書」によれば熊野山の御師の活動が盛んであったようである下方の地域の範囲を確定することは困難であるが,現在の富士市の中部から東北部,大字厚原・伝法・石坂・青島・高島・吉原1~5丁目の一帯に比定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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