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尾張藩(近世)


江戸期の藩名名古屋藩・尾州藩ともいう尾張国愛知郡名古屋に居城を置く親藩慶長5年関ケ原の戦ののち徳川家康は,大坂・京都に対する軍事・政治上の防御の拠点を尾張に置いた清須の福島正則を安芸国広島,黒田の一柳直盛を伊勢国神戸に,犬山の石川貞満を除封するなどにより,四男松平忠吉を武蔵国忍から清須に移し,知多郡の一部を除いた尾張一国52万石(一説に57万1,737石余)を与えたこれが尾張藩の起こりであり,同12年に忠吉が病死すると,九男徳川義利(のちの義直)を甲斐国府中(甲府)から移し,尾張一円を領有させたここに実質的な尾張藩が成立し,義直―光友―綱誠―吉通―五郎太―継友―宗春―宗勝―宗睦―斎朝―斎温―斎荘―慶臧―慶恕(のち慶勝)―茂徳―義宜と続き,慶勝が再相続することにより17代にわたって在封し,明治維新を迎える義直入封時はまだ幼少であったため,平岩親吉に犬山城を与える一方,清須城で藩政を代行させたが,家康のもとより年貢皆済状が出されるなど家康直轄地の色合が濃かった慶長15年名古屋築城が開始され,西国の有力大名が動員された家康は大坂城の豊臣氏との決戦を予期し,防御体勢を確立するために名古屋築城を命じたともいわれ,これにより尾張の政治・経済の中心は清須から名古屋に移った清須越ともいわれる城下移転は,城内と城下町を構成していたものはみな移されたという同16年親吉が死去し,成瀬正成・竹腰正信が正式に家老としての実権を握り,志水忠宗を加判とし,渡辺守綱・石河光忠などを重臣として列し尾張藩の家臣団の体制が整えられた藩の行政組織は光友の時代に定まったものが多く,承応元年熱田船番所・寛文元年吉利支丹奉行・同4年評定所・同5年寺社奉行・同年川並奉行などが設置された藩領は武家屋敷を別にすると,町方・村方・寺社領に分かれ,町方には名古屋・熱田・岐阜・犬山などがあり,それぞれ町奉行が支配し,村方は農村・山村・漁村など藩の大部分を占め,在町・宿場町も村方としての支配を受けた村方の民政は江戸前期には国奉行,後期の寛政6年からは勘定奉行があたり,寺社領は寺社奉行が管轄したこの国奉行・寺社奉行・町奉行を三奉行と称した国奉行の下には代官と郡奉行が置かれ,年貢に関しては主として代官は蔵入地,給知は給人にそれぞれ権限があり,郡奉行が村方全般を統轄したと思われるのち天明の改革によって所付代官が設置され,以後村への命令伝達はこの所付代官を通して一本化された尾張藩の農民統制は厳しく,特に近世初期のキリシタン弾圧はすさまじかった弾圧が本格化したのは寛永8年からで,寛文7年までに処刑されたものは756人にものぼったという(一宮市史本文編上)これを機に同年には五人組制度が組織されているまた天明元年の藩政改革も村内の身分秩序の再編強化を意図したものといい,安永年間諸国で起こった騒動などがきっかけとなったと竹中和順は「難波之塵」の中で述べている(名古屋市史1)尾張藩は一揆がなかった藩とされてはいるが,農民が減免を要求して代官所の陣屋や給人の所に押しかける例は数多く,これを禁ずる禁令も出されているまた,光友の時代に支藩が初めて置かれ,光友の次男義行が信濃高取3万石,三男義昌が陸奥伊達梁川3万石に封ぜられるなど支藩は3藩あったが,最後まで残ったのは義行の系列で,のち元禄13年美濃石津郡高須に住んで高須家と称し,宗勝・茂徳は同家から出て尾張藩主となっている内実100万石といわれた尾張藩もすでに義直の晩年には財政難になり,寛文年間には藩庫の収入が不足し,同6年には藩札(判書)を発行したが同8年には廃止しているその後国用人山内知真の財政改革,綱誠の改革,吉通の家中救済策などがあり,継友の時代に漸く財政は回復するが,宗春の自由奔放な政策は将軍吉宗の享保の改革と対立し,華美に陥り財政は破綻をきたした吉宗は宗春に対して3か条の詰問を発するなど彼の行動を問題にし,ついには蟄居を命じた宗勝・宗睦の2代は藩の中興時代ともいわれ,宗睦は藩政の刷新を断行し,殖産興業に意を用いた(県史2)宗睦の改革は「天明の改革」とも評せられ,国奉行所を改革,領内に所付の代官所を設置した多少の変化はあったが,天保5年頃には,各代官所の支配村数・高は大代官所180か村・16万2,967石余,鳴海代官所102か村・7万693石余,地方代官所171か村・8万7,193石余,清洲代官所184か村・14万7,454石余,横須賀代官所76か村・4万8,558石余,佐屋代官所109か村・7万4,053石余,小牧代官所158か村・9万7,049石余,水野代官所111か村・6万1,310石余,上有知代官所53か村・2万8,455石余,太田代官所130か村・5万6,407石余,鵜多須代官所154か村・7万6,764石余,千賀氏2か村・224石余などとなっている(尾張藩家臣団の研究)また,宗睦は民政上でも多くの功績をあげ,庄内川の治水事業などを行った宗睦の子治休は若くして死に,ここに義直の系統は断絶,以後4代は将軍家斉の血族が相続,継嗣問題を通して藩内は幕府依存派と復古派に分かれ,復古派の反幕感情が高まったともいわれる支藩,高須家の慶勝の登場によって力を得た一派は金鉄党とも称して,この後藩を反幕・攘夷に向かわせた日米通商条約に反対する慶勝は井伊直弼によって謹慎処分に処されたが,公武合体策を推進するなどによってついに明治維新となったのである(県史2)藩の所領は,慶長13年の検地では尾張1国47万2,344石余であったといい,正保元年には各村の村高と実際に収取される年貢との間に不公平が生じてきたため概高(四つ概)の制が実施された過去10年の実際の収納率を調べその平均が村高の4割に相当するように村高を変更したもので,これを概高(今高)とよび古い検地の石高を元高と称した「地方古義」によれば,尾張国元高48万2,227石余・概高70万9,075石余,美濃国元高12万7,042石・概高15万4,077石余(慶長17年・元和元年・同5年の加封),三河国元高5,000石・概高5,962石余,近江国元高5,000石・概高4,147石余,摂津国元高232石・概高270石余とあり,合計元高61万9,075石余・概高87万3,532石余となっているこのほかに元和元年無高の木曽山を与えられ,天和2年には給人自分起の新田など1万4,640石余を上知,寛文11年には新田高が尾張国7万8,435石余,美濃国7,017石余,三河国331石余,近江国64石余などとなっているこれらの新田は藩の手で行われた熱田新田や,いわゆる入鹿六人衆によって開発された入鹿新田,伊勢湾・知多湾の遠浅の海を干拓してできた新田など数多い領地は蔵入地と給知に分かれ,蔵入地は藩の直轄領であり,給知は藩士に知行として給付されたものである安政年間には給知高1万石以上の給人5人,1,000石以上61人,300石以上274人,100石以上931人,50石以上40人の計1,311人の給人,現米給与の人数は,300~600俵44人,100俵以上225人,50俵以上246人,30俵以上188人など目見以下の者も含めて4,677人となっているこのように人件費は所領高の9割を超えたものと思われ,藩の実収は現米10万~12万石だという免は,蔵入地は正保四ツ概以後は4ツであったが,元禄~享保年間は3ツ5分,天明改革以後は3ツ以下となった給知はこれよりやや高く,寛文11年以降10年間の平均免は蔵入地が0.3995に対し,給知は0.4096と1分1厘ほど高く,この差の比率は幕末まで変わらなかったという(尾張藩家臣団の研究)藩校としては,義直が大津町学校(大津町学問所)を開いたが,間もなく廃止,寛延元年宗勝の時に巾下埋門外御作事屋敷内に学問所を建て,同2年明倫堂と名づけたが宝暦元年に突如廃止された天明2年宗睦の時に,御国方役所跡に学問所を建設,同3年明倫堂と号し,細井平洲を総裁に任じた文久3年には慶勝の意をうけて田宮如雲が刷新をはかり,国学に関するものを多く採用また,武技堂も設けられている明治2年版籍奉還とともに大改革が行われたともいう(県史2)明治4年7月廃藩によって名古屋県となる

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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