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西条藩(近世)


江戸期の藩名江戸中期から伊勢国河曲【かわわ】郡西条【にしじよう】(鈴鹿市西条)周辺その他を領有した譜代極小藩現在の地名は「にしじょう」であるが,「さいじょう」と通称されることが多い元文年間に河曲郡南林崎村(鈴鹿市南林崎)に代官を置いたので南林崎藩とも呼ばれるまた,天明5年上総国市原郡五井村に居所を移したため以後五井藩と称し,天保13年からは下野国都賀【つが】郡吹上村に居所を移したため吹上藩と称したなお,本書では便宜上江戸期を通して西条藩の名称を用いた紀伊徳川家の家臣有馬氏倫が享保元年徳川吉宗の将軍就任により旗本に復し,側御用取次となり,同年伊勢国三重郡で1,300石を得,翌年下野国芳賀郡で1,000石の加増,さらに同11年伊勢国三重・河曲・多気および下野国河内,上総国市原の各郡内で7,700石を加増され,同12年領地の朱印状を得て大名となり立藩有馬氏は久留米藩主有馬氏の支流で,氏倫の祖父吉政が徳川頼宣に仕官して以来紀伊徳川家の家臣となった藩主は氏倫(~元文元年)のあと氏久(~元文9年)・氏恒(~元文10年)・氏房(~安永2年)・氏恕(~天明3年)と相続歴代藩主は定府して伊勢に居所を置かず,林崎の代官棚瀬氏が代々伊勢領7,700石を支配氏恕は天明元年上総国市原郡五井村に陣屋を構え,有馬氏は定府大名から半年ごとに参勤交代を行う大名に昇格した氏恕のあと藩主は氏保(~寛政2年)・久保(~文化12年)・氏貞(~天保4年)・氏郁(~文久2年)と継いだが,氏郁の代の天保11年に市原郡内の4,400石余を伊勢・下野国内に領知替され,同13年下野国都賀郡吹上に居所を移した氏郁の跡は氏弘が継ぐ廃藩時の表高(公称高)1万石に対し内高は1万3,700石藩領は廃藩時には下野国都賀・芳賀・河内3郡,伊勢国三重・河曲・多気3郡の合計6郡に散在このうち伊勢国は三重郡6村2,580石余・河曲郡7村2,971石余,多気郡5村2,150石余で計18村7,702石(旧高旧領)版籍奉還時の江戸城中の詰所は菊間明治4年廃藩となり,伊勢国内の藩領のうち三重・河曲2郡は吹上県を経て安濃津【あのつ】県となり,同5年三重県に所属し,多気郡は吹上県を経て度会【わたらい】県となり,同9年三重県に編入された




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7364951