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成安保(古代〜中世)


平安期から戦国期に見える保名蒲生【がもう】郡のうち成安保は日野牧上保成安名と同義であり(蒲生文書29),日野牧のうちから分立した荘園である成安保は承徳2年,堀河天皇が祇園感神院に勅施入したものであり(鎔冶漫筆),後嵯峨院の時,祇園社長日神供料とされている弘安2年,亀山上皇は院宣を下して保司職を藤原氏女に安堵しているが,藤原氏女の郡内での位置は明らかではない元亨3年と嘉暦4年の両度,後醍醐天皇は綸旨をもって教晴法印に保の知行を安堵している建武4年光厳上皇は侍従阿闍梨御房に成安保の図師・公文職を院宣により安堵し,文和4年後光厳天皇は法印顕詮に対し,成安保を御祈祷料所とするよう綸旨を下している同年保の領主職が甲賀武士の山中入道に押領されたのを,足利尊氏が止め,顕詮の知行を安堵しているその後,祇園社僧栄暁と教尊とが争い,康安元年に教尊は成安保半分を松寿殿に譲っているが,貞治元年・同2年にも,この相論は継続している永徳2年,後円融院は宰相僧都顕深に成安保を安堵しているが,これは三国侍従僧とその氏女が,山中入道と共謀して押領したことに対する処置であった同3年から至徳2年にかけて,室町幕府は再三にわたり,山中入道などの押領停止を命じているその間,祇園社僧顕深と松寿丸,源氏女との間に,成安保の知行をめぐる相論が続行しており,同年足利義満は顕深の知行を安堵した嘉慶2年室町幕府は成安保にたいする六角氏被官人の乱入狼藉の停止を命じ,応永13年,祇園社の宝寿院玉寿丸の知行を安堵している文安元年にも幕府によって安堵され,延徳4年,兵粮料を免除されている延徳4年以後,成安保が祇園社領として存続したかどうかは,史料欠如のために不明であるが,承徳2年の堀河天皇の施入以来約400年間,祇園社領として存続したことは確実である現行の蒲生郡日野町一帯である




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7371753