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岡屋津(古代〜中世)


平安期から見える津名山城国宇治郡岡屋郷のうち現在の宇治市五ケ庄岡屋の宇治川岸とみられる貞観13年8月安祥寺伽藍縁起資材帳に「船二艘一載廿斛,在大津,一載十五斛,在岡屋津」とあるのが初見(平遺164)宇治川・淀川水運の要衝で,巨椋池をはさんで西の淀津とともに東の岡屋津として平安期以前にその起源を求めることができる山科郷古図によれば,「郡里岡屋里」の南に接して「大津里」があるこれは宇治郡第一の津としての美称「大津」に由来し,岡屋津を示すものである(宇治市史)年代は未詳であるが,のちになると醍醐寺下諸院の1つ,菩提寺領になって津の管理,津料徴収が行われていたとみられる「岡野屋津者元此寺領也,而津領所下向鎮西之時,葦毛父馬一疋為直沽却了」とあって,以来「醍醐之荷者津料不取之也」とされた(醍醐雑事記)平安中期以降,摂関家領岡屋荘が経営され,富家殿・平等院・小松殿・西殿・小川殿・泉殿などの殿舎が次々に造営されると,政治的にも宇治と京を結ぶ要津として機能した万寿2年11月,内府教通は「向岡屋,加塩湯治七日ケ許」とある(小右記)康治2年2月には師実らが宇治で「御塩湯」を行っている岡屋津に諸所より塩を運漕させて,この塩を使って湯治を行ったものとみられる久寿2年2月には醍醐寺大僧都定海が寺家御湯治のため,吹田荘・郡荘・志紀南荘・志紀北荘・若江荘などから「潮」を運ばせているこの船は「可付岡野屋」とされ,そこから桶で寺家に搬入されている(醍醐雑事記)富家殿付近の渡船場は「富家の渡し」といわれたが,これとの関係は不明である鎌倉期には藤原定家が天福元年正月26日,宇治において「又参問(向歟)於岡屋津乗船難波」と記している(明月記3)なお,「方丈記」で鴨長明は岡屋津の舟運の盛んな様を「あとの白波に,この身を寄する朝には,岡の屋にゆきかふ船をながめて,満沙弥が風情を盗み」といっている




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7374646