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大島雀部荘(中世)


平安末期~戦国期に見える荘園名摂津国武庫【むこ】郡のうち保元2年3月25日付太政官符に「摂津国伍箇処……大島雀部庄」とあり,左大臣藤原頼長の所領であったが,保元の乱で頼長が敗北すると没収されて後白河天皇の後院領となった(兵範記保元2年3月29日条)鎌倉期の建永2年7月4日付河内通法寺領注文案に通法寺末寺の雀部寺領として「一,摂津国字雀部寺 在寺領武庫郡東条〈大島郷・雀部郷・浜田郷〉」とあるように(正木直彦所蔵文書/鎌遺1691),当荘は大島・雀部の2郷で構成されたが,のちには単に大島荘とも称した荘域は尼崎市の旧大字今北・東大島・西大島・西新田に相当する大島郷は東大島・西大島付近でその中心は東大島字春日・字屋敷あたり,雀部郷は今北付近で今北の字蓮華寺あたりに中心があったと考えられる文治3年3月には領家(預所)職を所持したと思われる本領主源氏女が「つ乃くに大しまさゝいへの御さう」を妙音院太政大臣藤原師長(頼長息)に寄進,翌4年12月師長はこれを藤原孝道に譲与した安貞2年7月13日付藤原孝道譲状には「摂津国大島雀部庄預所職」と見えて,孝道息女播磨局が伝領,次いで源時経(播磨局息)・源資名(時経息)と相伝されたが,南北朝初期に後醍醐天皇によって没収され,蔵人俊清・楠木正成・僧正覚円,のちには西園寺家に恩賞として給与されたという南北朝期には源資名女右衛門督の子息で村上源氏の源中納言雅康が伝領を主張して西園寺家と相論,康永2年に領有を認められた同年9月29日付光厳上皇院宣には「蓮花王院領摂津国大島雀部庄」とあり,当時の本家は後白河院創建の蓮華王院(三十三間堂)であったことが知られる預所職は源雅康ののち,貞和3年に源雅顕,同5年に源雅世,貞治元年に源雅宗が相伝している(伏見宮記録/尼崎市史4)しかし,雅宗の頃には知行は無実となっていたため,応安2年正月には「摂津国大島庄」を他の家領とともに光明院庁に寄進してその保持を計った室町期には久我家の知行となったものの,寛正3年の久我家備進文書正文目録や長禄4年の久我家領不知行所注文草案によれば,嘉吉元年には守護半済によって当荘半分が不知行となり長禄元年まで細川阿波守持久代官が年貢を押領,同年からは代官請としたが納入されず,久我家は幕府に直務を要求したというまた,久我家では文明8年には安富盛叔を「摂州武庫郡大島庄本所分代官職」に用いるなどしたが,同16年6月本所分を国人池田正盛に売却,同19年5月には「摂津国大島庄領家職」を安東政藤に売与して撤退した(久我家文書1,宣秀五位蔵人御教書案/大日料8‐20)なお,文安2年の興福寺東金堂庄之免田等目録帳には「摂津国 雀部寺〈……大島庄□十八丁九反大……〉」とある(宮内庁書陵部蔵かたみの若葉)戦国期の永正16年12月には細川澄元勢に包囲された越水城救援のため細川高国が当地を含む武庫川沿いに布陣,また,越水城内には瓦林正頼の下に「大島住人雀部与一郎・同弟次郎太郎」があって高国方として奮戦したと伝えられる(細川両家記/群書20)戦国期には大島荘の今北・東大島・西大島・西新田4か村に大島井と称する農業用水路が成立していた豊臣氏の奉行増田長盛が「大島百姓中」へ宛てくだした天正14年4月13日付大島井条書によれば,1条には「大島の井のくち,むこ村の領内のつゝミ(堤)にあけ候て近年水を取来候間」と武庫村内の堤からの取水を約束させ,2条目には森部の井口を直す時には大島の給人から米を森部の百姓宛に差し出すことを,3条目には草刈の際,領内ぎりに草を刈ることについて,水利慣行を承認している(東大島農会文書/尼崎市史6)同14年2月21日にも増田長盛は「浜田村大島村井水」の水争いについて裁定しているが,この大島村は大島井の諸村を指すもので,東大島・西大島の一村という意味ではない(寺岡得夫文書/同前)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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