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都賀荘(中世)


鎌倉期~戦国期に見える荘園名摂津国兎原郡のうちはやく平安末期の「山槐記」治承4年10月24日条に「今暁出福原向旧都,於都賀天明,午剋着河尻」とあり,福原新都から京に向かった藤原忠親が当地を通過したとある鎌倉期,正治2年正月10日付春日祭雑事定文では「秣蒭……都賀御庄」が記され,当荘が摂関家領荘園であったことが知られる(猪熊関白記正治2年正月10日条)建武2年9月には「摂津国都賀庄」は足利尊氏から勲功の賞として三浦高継に与えられたが(宇都宮文書/大日料6‐2),これは当荘下司職が給付されたものとみられるその後,応永26年4月19日付足利義持御判御教書によれば「清和院領摂津国都賀庄今南庄下司職」が安堵されており,下司職は清和院領となっている(集古文書/後鑑)次いで下司職以下は相国寺富春軒の管領するところとなり,文明14年頃の摂津国寺社本所領奉公方知行等注文では「一,同(相国寺)富春軒領 都賀庄内下司公文名并摩耶山別当職」と記され,また,荘全体は同時期の社領并人給分等注文に「一,赤松葉山三郎知行 都賀庄」とあって,幕府から赤松氏に給与されていた(蜷川家文書2/大日古)室町期~戦国期の荘経営については文明元年都賀荘寺庵帳・文明2年都賀荘公文名地帳・長享3年都賀荘夏麦指出・永正3年都賀荘一番段銭注文・永正17年都賀荘下司名年貢納帳などが伝存するが,これらによれば当荘は下司公文名のほか末友・岩里・貞松・浄蓮・光貞・光弘・宗清・包任・新行・安国・安次・清武・末吉・光元・教意・依行・専光・安光などの名で構成され,土豪若林氏が収納のことに携わった荘内には高羽・篠原・河原・味泥・森・稗田・鍛冶屋・畑原・上野・原田などの諸村が含まれたものとみられる(天城文書)また,天文10年6月29日付妙観院周隆書状では当荘に賦課される反銭が免除となった旨,「都賀庄名主百姓中」に伝えられている(同前)なお,現在の神戸市灘区の西南端,旧岩屋村の敏馬神社西方に所在する小字庄堺・坤【ひつじさる】などは当荘の西堺を示すものという(なだ)




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7393627