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山路荘(古代〜中世)


平安期~戦国期に見える荘園名摂津国兎原郡のうち山道・山地とも書く「水左記」永保4年4月25日条に「招頭弁,返上山路庄并今南庄相論公験」とあるなど,当荘と近隣の今南荘の間で相論があり,朝廷に訴えられている領家は大宮右大臣藤原俊家で,以降は女系を通して孫の大宮太政大臣藤原伊通に伝領されたと推測される(中右記保安元年11月12日・長承元年11月10日・同2年3月19日条など)伊通は当荘を「摂津国山道庄後正月初七日修正」の料所に宛て北野社執行永勝をその奉行としたが,修正奉行は永勝から鎌倉期文永年間の法眼親禅に至るまで代々相承された(北野神社文書/鎌遺9294・11106)平安末期から鎌倉初期の文書例を類聚した「儒林拾要」所収の年未詳皇太后宮職政所下文によれば,預所の訴えで皇太后宮職政所が「摂津国山道御庄」の荘官・番頭・百姓らの参洛を命じているが,おそらく,当荘は平安末期に伊通の女皇太后宮呈子の所領となったとみられる(続群31下)なお,「山槐記」治承4年10月23日条には「左中将清通朝臣在山路庄〈自福原去二里〉」と見え,福原に遷都された治承4年には伊通の孫清通が荘内に滞在した鎌倉末期には山路本荘と山路加納荘に両分されていたらしい「山路本庄」の称は時代は下るが,天文年間と推定される7月18日付妙観院周隆書状に見える(天城文書)一方,加納荘は正和年間に伏見上皇から南都春日大社の大般若経并神供料所として施入され,やがて興福寺大乗院門跡の管領するところとなって,戦国期まで維持された(東寺百合文書む康永2年4月日付全頂寺雑掌申状・三箇院家抄2)南北朝期,観応年間には赤松範資の勢力下に置かれ兵糧人夫などが賦課されている(御挙状等執筆引付観応元年12月6日付興福寺別当孝覚御教書/大日料6-14)応仁の乱では薬師寺与一の舎弟が当荘に打ち入って大内政弘の軍と合戦するなど,武士の押領をこうむったため,文明10年には大乗院門跡の訴えによって幕府が「春日社兼興福寺領摂津国山路加納」に対する押妨を停止させている(大乗院寺社雑事記文明9年6月6日・同11年正月2日条)永禄12年12月日付山路荘公事銭取納帳には「南郷春日社御神供料摂州卯原郡山路庄」として荘内の村落に加地子・山公事負担を割り当てているが,荘内の村には住吉・野寄・岡本・横屋・魚崎・青木などがあった(今西家文書/豊中市史史料編2)これは現在の神戸市東灘区の東部を中心とした地域にあたる天正11年8月,羽柴秀吉の大坂築城に際しては荘内も採石場となり,「摂州 本庄 芦屋郷 山路庄」に対し百姓に迷惑をかけぬよう禁制が発布された(吉井良尚氏所蔵文書)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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