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飽波(古代)


飛鳥期から見える地名飽浪・阿久奈弥とも書く地名は湿地帯を意味する語か①飽浪天平19年の大安寺資財帳(寧遺中)に,推古天皇は田村皇子(のちの舒明天皇)を「飽浪」に所在する「飽浪葦墻宮」へ遣わして厩戸皇子の病を見舞ったとある厩戸皇子晩年における宮居の名が見えるが,推古紀29年2月癸巳条には「斑鳩宮」で没したとある「書紀」編者には,「飽浪宮」も広義の「斑鳩宮」の1つと考えられていたらしいさらに奈良期の離宮として,神護景雲元年に称徳天皇は「飽浪宮」へ行幸して2日間ほど滞在し,その間に法隆寺の奴婢27人に爵を賜うと見え,同3年にも河内国由義宮へ向かう途中に立ち寄っている(続紀神護景雲元年4月乙巳・丁未条,同3年10月己酉条)「大和志」は飽波神社(現安堵村東安堵小字椣原),「地名辞書」は高安寺(現安堵村西安堵),「斑鳩町史」は成福寺(現斑鳩町法隆寺小字上宮)にそれぞれ比定する②飽波村「上宮聖徳太子伝補闕記」に,壬辰(舒明天皇4)年のこととして,「飽波村」に虹がかかり終日移らず時人がこれを怪しんだと見え,上宮王家滅亡の前兆とされているなお「扶桑略記」はこれを皇極天皇3年11月のこととしているまた坂上系図所引「姓氏録」逸文に,阿智使主が朝鮮三国から仁徳朝に呼び寄せた人々の子孫に「飽波村主」が見えるさらに,天平勝宝2年に官奴司が官奴婢から200人を選定して東大寺に施入した中に,広瀬村・春日村・庵知村と並んで「飽波村」の常奴8人・常婢1人の名が見える(正倉院文書天平勝宝2年2月24日官奴司解/大日古編年3)藤原宮出土の奴婢関係木簡に「⊐飽浪□⊏」と墨書したものがある(藤原宮木簡2解説No.849)これらの木簡は奴婢の名前や年齢・居住地などを記した名籍的なもので,大宝年間以前という年代比定がなされている当村には少なくとも7世紀代にさかのぼる時期に官奴婢が居住していたことが知られ,厩戸皇子の「飽浪葦墻宮」や称徳天皇が立ち寄った「飽浪宮」との関連が考えられる③飽浪評(郡)天武紀5年4月辛丑条に,「倭国の飽波郡」では雌鶏が雄に化したと報告している「和名抄」などの後世の史料に飽波の郡名は見えず,平群【へぐり】郡に飽波郷が存在すること,7世紀代と推定される正倉院黄絁幡残片墨書に「阿久奈弥評君女子為父母作幡」と記されているところから,「書紀」が「飽波郡」と表記するのは潤色で,7世紀後半には当地に行政区画として「飽波(阿久奈弥)評」が設定されたが,大宝令の郡制施行までは存続せず,隣接した平群郡にやがて吸収されてしまったと推定される当地に居住した氏族としては「阿久奈弥評君」「飽波村主」のほかにも,壬午(天武天皇10)年の年紀を有する幡銘に「飽波書刀自」(東京国立博物館蔵上代裂墨書銘)の名前が見える評の領域はのちの平群郡飽波郷と額田郷を合わせた地域で,現在の安堵町に大和郡山市の南部を合わせた範囲であったと推定される④飽波郷「和名抄」平群郡六郷の1つ高山寺本・東急本ともに「阿久奈美」と訓む天平宝字5年以降の成立とされる額安寺所蔵の額安寺伽藍并条里図(荘園絵図聚影)によると,「飽波郷」は平群郡8条5・6里,10条6里,「飽波東郷」は7条2・3里,9条5里,「飽波西郷」は9条6・7里に見える郷域は現在の安堵町付近に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7397731