羆凝村(古代)
飛鳥期に見える村名クマゴリは隈郡【くまごおり】で,郡の境界を意味する語か平群【へぐり】郡・山辺郡・添下郡などの郡界付近に位置したと考えられる(県史14)天平19年の大安寺資財帳(寧遺中)に,推古天皇が病臥中の聖徳太子を見舞いに飽浪葦墻宮へ田村皇子(のちの舒明天皇)を遣わした時,太子は自分が始めた「熊凝村」にある道場を,過去と将来の帝皇のために大寺に営造すべく譲り献り,私的には田村皇子に仏法を永く伝えるため羆凝寺を付与したとあり,これがのちの大安寺の前身であると伝承する同様の記述は,「大安寺碑」(寧遺下)・「扶桑略記」「元亨釈書」「今昔物語」「本朝文集」,「仏法伝来次第」「諸寺略記」「年中行事大概」(続群25下・26下・10上)などにも見え,「羆凝村」に「羆凝道場」「羆凝寺」「羆凝精舎」があったと表現されているその所在地については摂津に比定する説(七大寺巡礼私記)もあるが,平群郡内に比定する説(三代実録元慶4年10月20日条)が有力である道場や精舎とも表現されているところから,独立した寺院ではなく,飽波宮の近傍に存在した宮室付属の小規模な仏堂であったと考えられるやがて鎌倉中期に成立した「聖徳太子伝私記」(続々群17)に至ると,羆凝寺は平群郡額田部郷にある額田(額安)寺と同一視されるようになるただし額安寺付近からは7世紀中葉頃までさかのぼる軒瓦が出土しているが,両寺が伝承上結びつけられるようになるのは早くとも平安期以降であり,本来両寺は額田部連氏の氏寺と飽波宮付属の仏堂という異なる性格の寺院であったと考えられるなお武内宿禰を攻めた忍熊王の軍の先鋒に「熊之凝」の名が見え(神功紀元年3月庚子条),「中臣熊凝朝臣」という氏族名も見える(姓氏録右京神別上・続紀天平17年8月甲午条)比定地は不明だが,飽波の地とするならば,富雄川流域で現在の斑鳩【いかるが】町・安堵町付近と推定される
| KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7399332 |