100辞書・辞典一括検索

JLogos

10

英賀荘(中世)


鎌倉期~戦国期に見える荘園名備中国英賀郡のうち建久3年3月日の後白河院庁下文案(大徳寺文書)に,大嘗会・造野宮・宇佐勅使・住吉造宮・造内裏・御願寺塔以下勅院事国役や国郡司甲乙諸人などの妨げを停止すべき荘園の1つとして「備中国英賀庄〈金剛心院領〉」とあり,当荘は後白河院の寵妃丹後局(高階栄子)の所領であったこれらの所領は,のちに丹後局の孫正二位権中納言冷泉教成にはじまる山科家に相伝されていったその後山科と称する子孫二流に所領は分割され,弘安9年亀山上皇の勅裁により英賀荘水田郷を山科資行分とし,英賀荘呰部【あざえ】郷を山科教頼分としたさらに持明院統・大覚寺統の対立とともに相論が南北朝期まで続いた文保年間と推定される年月日未詳の教成卿遺領相伝事(宮内庁書陵部所蔵文書/竜野市史)はこの頃の相論関係文書と推定され,山科教房の遺領の1つに「英賀庄水田郷」が見えるなお,建武3年8月19日の光厳上皇院宣(県史未収色々証文)で,冷泉三位入道に「英賀荘内中津井郷」を安堵しており,当荘内には中津井郷も含まれたその後「教言卿記」応永15年7月4日条(纂集)所収の7月4日の常言書状に「備中国英賀庄水田郷内興法寺」と見え,如乗璞和尚の管領を認めているまた「言継卿記」の永禄10年10月15日条には「一,備中国英賀庄水田郷,半分退蔵庵江寄進〈今者相国寺常徳院進退〉,半分本役取沙汰也」と見える当荘名の所見はこれのみで,当荘内の水田郷・呰部郷・中津井郷が各々水田荘・呰部荘・中津井荘と称されるようになった荘域は北房町のうち備中川両岸の平坦な盆地を中心とした地域と推定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7414433