100辞書・辞典一括検索

JLogos

12

青島(近世)


 江戸期~明治22年の地名。喜多郡粟津郷のうち。大洲【おおず】藩領。郷帳類には見えない。江戸期は黒田村のうちとして取り扱われた。古来「沖の水無瀬【みなせ】」と呼ばれた無人島で,馬島と呼ばれ,寛永年間頃大洲藩の馬の放牧地となっていた。寛永16年,播磨国坂越村(兵庫県赤穂市)の漁民与七郎が,一族16軒を引き連れて,鰯網の漁場開発のため移住,一浦が成立した。翌17年藩主加藤泰興が来島して3日間の鹿狩りを行い,その滞在中に馬島を青島と改めた。与七郎は槍一筋と呉服若干を賜った上に,赤城九郎左衛門と改名して青島庄屋を命じられた(積塵邦語)。その後3軒の来住があった。のち,開墾が進み,寛文6年の「畑方検地帳」(赤城家文書)には,畑5町余,分麦10石余とある。翌寛文7年島全体にかけられていた麦年貢と網代運上が免除された(赤城家文書)。同年の「西海巡見志」には,港があり南風に悪し,100石以上の船7艘,家数19軒,船数26艘うち漁船23艘,加子(船乗り)数24人うち役加子5人とあり,とくに長浜を上回る漁船数が注目される。元文5年の「大洲秘録」では,無高と記され,神社は明神社,寺院は潮音寺,物産は麦・夏豆・大角豆・海雲・蛤・栄螺・生海鼠・小鰯。漁業立島のため,寛永16年に鰯網1帖,寛文3年に鯛釣,同7年に鯛縄,天明元年に五島網,同2年に黒口釣,文政2年に鱸網・手繰網・磯魚取,文政3年に魬釣,同4年に鰒縄,同5年には鱸釣というぐあいに,それぞれ特許された(赤城家文書)。寛政4年の人口は273。明治6年愛媛県に所属。同9年の戸数67・人口382。同13年黒田村から長浜町に編入された。明治22年長浜町の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7430654