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吾橋荘(中世)


平安期~室町期に見える荘園名長岡郡・土佐郡のうち「あがはし」ともいい,古代には「延喜式」に見える吾椅駅があったとされており,古くは吾橋山と見える初見は,安元2年12月3日の在家役免除状で「土佐国(ママ)北条吾橋山 奉免 長徳寺并王子殿四至」とあり(古文叢),長徳寺ならびに若一王子社の四至内の在家役を免除している長徳寺については,建武元年4月日の長徳寺院主宗賢申状に,「右当寺者吾橋山開発領主頼則・盛政等,去久安五年定置寺領四至堺,奉施入荒野以来云」とあり(同前),久安5年に当地の開発領主である頼則と盛政が菩提寺として吾橋山長徳寺を建立したことがわかるなお「編年紀事略」は「按ニ頼則盛政ハ永和弐年三月九日前信濃守ノ先祖ニシテ八木氏ノ人ト見エタリ」と記しており,本山の領主である八木氏の祖にあたる頼則・盛政によって当地の開発が進められたと考えられるまた「副進 三通 地主寄進状案〈久安・応保・安元此外文書等数通雖在略之〉」などと見え,久安5年に当地を荘園として寄進したことがうかがわれるが,弘安11年正月5日の熊野惣公文良懸(通カ)下知状に「自往代,為熊野権現之御懸地,経年序処」とあるところから(古文叢),紀伊熊野神社領であったと思われるいずれにしても鎌倉期には熊野神社が荘園領主であったが,嘉禎2年12月11日の土佐国留守所下文(同前)では,荘内の下永田にある白我社の供田3反の貢納の免除を国衙留守所が行っていると考えられるその後,寛元2年8月3日の土佐国守護所下文では若宮王子の修理田5反の万雑公事を守護が免除の形で寄進している(同前)また宝治元年12月日の地主小野某狩野寄進状によれば,久安5年に長徳寺建立に際して寄進された土地が荒廃して守護所の狩野となっていたが,これを再開発し改めて長徳寺に寄進する旨が記されており(同前),当荘域における守護勢力の浸透が知られる建長6年12月23日付の熊野社からのものと思われる某袖判禁制には「吾橋長得寺内乱入甲乙人等且致仕部等狼藉由事」と見え,熊野社の荘園支配が衰退しつつあることがうかがえる(同前)地頭の荘園侵食については,先の弘安11年の下知状では,地頭が荘内を荒らして牛馬や米穀を掠め取ったことに対し,熊野山は満山の衆議で近隣の山伏や先達を動員しているこれに対して正安2年3月18日の大須賀左衛門尉平某下知状(同前)では,熊野山は六波羅探題に訴えているが,特別に下文を得たわけではなく,地頭領であるから地頭の沙汰に従うよう下知されており,地頭の支配力の伸張がみられるさらに地頭の背後には守護の存在があり,徳治3年2月10日の左衛門尉某施行状では「吾橋山内長徳寺院主職」が守護代と考えられる大須賀殿の下知を受ける形で安堵されている(同前)しかし領家については,元弘3年11月13日の尊良親王令旨案によれば,尊良親王領となっていることがわかる(同前)また先に引用した建武元年の申状では,森郷北泉の地頭陰山孫五郎の押妨を受け,建武2年11月18日の沙弥某安堵状では,「地頭方仕部以下甲乙人」などによる押妨に対し,長徳寺領として安堵すべきことが認められている(同前)その後,観応2年2月18日の源某奉書および同4月25日の源某禁制では,長徳寺に対しそれぞれ祈祷と寺領の保護を命じており(同前),この発給者については足利尊氏とする説もあるが,細川一族のものとも考えられている(県史古代中世)いずれにしても武家による当荘の支配の進展がうかがわれ,応安7年12月15日の某袖判補任状では清高女が「吾橋庄内惣一職」に補任されており,信濃守八木が奉じている(古文叢)八木氏は永和2年3月9日の前信濃守八木某寄進状によって,当荘と推定される下地を寺領として寄進している(同前)八木氏は,前述したように開発領主の系譜を引き,長徳寺院主職と当荘の荘官を兼ねたが,その一族がやがて地頭として当荘の支配を行うに至ったものと思われるなお八木氏については「土佐日記」に「やぎ(八木)のやすのりといふひとありこのひと,くに(国)にかならずしもいひつかふものにあらざなり」とあり(古典大系),土佐国衙付近の土豪と考えられている(本山町史)四国山地に囲まれ,吉野川上流に汗見川および地蔵寺(森)川が合流する付近に位置し,現在の本山町寺家を中心として土佐町の一部を含む地域に比定されるが,荘域の詳細については不明




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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