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延寿寺村(近世)


江戸期~明治9年の村名筑後国生葉【いくは】郡のうち耳納【みのう】山地東部の北麓,山麓の合流扇状地上に位置する山中に古墳が多い地名の由来は,星野城主星野鎮実が貞永元年に建立した金谷山延寿寺にちなむと伝える古くは福増村と称したという星野高実の居城と伝える福丸城(福増城)跡があり,字館畑は居館跡同城は俗に延寿寺城とも呼ばれ,寛正6年10月17日の光憧(勝光寺か)書状には合戦の行われたことが見える(大友家文書録/大友史料11)熊野大権現宮の御旅所跡と伝える地を中心に町があったという(寛延記)文禄4年12月1日の小早川秀俊の杉元式あての知行方目録に「四百五拾七石壱斗壱升」として当村名が見える(萩藩閥閲録112)はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領寛文11年長谷勘兵衛が100石,寛保3年円岡庄右衛門が180石,松田右膳が200石,里村理兵衛(知行石高不明),久徳五兵衛が200石を知行(所付扣・給知高帳)村高は,「元禄国絵図」479石余,「在方諸覚書」の古高980石,「天保郷帳」532石余,「旧高旧領」1,209石余宝暦年間頃の役高は1,209石(在方諸覚書)寛政元年撫6斗(筑後上三郡取調手鑑)嘉永元年頃の作柄は「右村凡六俵の田方・五俵の畑作」この頃「首やけ」と称し稲穂が黒くなる病気が流行した(廻村書留)文化4年の耕地は田77町余・畑田1町余・畑19町余(農政農民史料集)豊後街道山辺通りと星野村から小江船渡へ通じる道路に面する村である「水縄山所々ぬけ候」という享保5年の大山汐では,17人・馬9疋を失い,大きな被害を蒙った(石原家記)妹川村との境に牛泣越(牛鳴峠)がある熊野大権現宮は永享10年・文明9年再興の棟札をもち,文明年間頃星野氏より社領10町を寄進されたというほかに藪神14,一向宗妙福寺(以前は禅宗,星野氏より寺領12町),同氏の墓と伝える石塔1,同氏館跡と伝える地に観音堂1がある(寛延記)明治9年福益村の一部となる現在の吉井町福益の一部にあたる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7438756