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大宰府(古代〜中世)


奈良期から見える官衙名筑前国御笠郡のうち大宰府は古代律令制下において,西海道(九州)諸国を統括した官衙古訓はオホミコトモチノツカサ古文書に押印された平安期の公印は「大宰府」である政庁跡は都府楼址と称され,オホミコトすなわち天皇の居所である内裏に通じる大裏という地名が残っている政庁跡の前面地区には府庁に音通する不丁という地名があるが,発掘調査により官衙跡の一部とみられているその西側の小丘は蔵司という地名で,管内諸国島の調庸物の出納を担当する蔵司とその管理する府庫の遺跡に比定されている大宰府は,左右両郭12坊南北22条からなる条坊制の施された郭内を称す都市的な意味で用いられることもあれば,大野城や水城・寺社など周辺に所在する関連施設を含み,いわゆる都城としての意味で使われる場合もある大宰府の設置に関する直接的な史料はないが,天智2年の白村江の敗戦による朝鮮半島の情勢の転換に対処することにあったと考えられ,それは「日本書紀」に見える天智3年の「水城」の築造,さらに翌年の大野城・基肄城などの築城に関する一連の防備記事から伺える大宰府設置の当初は外交・国防の中枢としての役割が大きかったと推定される下って「続本朝往生伝」には寛弘4年3月10日に性空の弟子沙門高明が大宰府の大山寺に住していたことが記されている(群書5)康和2年11月20日に「大宰府衙」に出した東寺牒(東寺百合文書/天満宮史料6)によれば,大法師覚寿を「大宰府四王寺」の四禅師に重任している「菅家後集」に「西府新詩一巻」とあり,「本朝文粹」に菅原道真の廟は「在西府東北二三里矣」と記しているように,平安期には都から西の方にある府という意味で大宰府のことを西府とも呼んでいるまた,大の字を略して宰府と用いられた早い例は,延喜22年6月5日大宰府の命により新羅の使人が対馬島から帰還する際,菅原淳茂が作った新羅に答える返牒のなかに,「縦宰府忍達金闕之前」と見える(本朝文粹)なお,寿永2年8月17日に都落ちした平家は大宰府に着くが,「源平盛衰記」に「平家ハ筑前国御笠郡大宰府ニ著給ヘリ」とあり,「平家物語」にも「大宰府落ちの事」と見えている大宰府の地域は役所としての大宰府が置かれた現太宰府市周辺に限定されて使われており,大宰府の律令制的支配がしだいに変質していく11世紀以降,地名に転訛していった中世に入って,文永元年伊予僧随縁(のちの一遍上人)は大宰府原山の聖達に従って浄土宗に帰し,名を智真と改めるが,「一遍聖絵」に「筑前国大宰府の聖達上人の禅室」とある(続群9上)文永8年蒙古船が筑前今津に着いたことを記す「吉続記」には「蒙古船著岸今津郡,件所自大宰府相隔一二里云々」と見え,文永10年3月元使趙良弼は再び到っており,「高麗史」巻27には「趙良弼如日本至大宰府」と記されている元応元年11月15日に安楽寺参詣のため大宰府を訪れた神祇伯白川資清王のことが見える「阿蘇文書」には「令下着宰府之時」とあり,この頃から宰府の用例が多く見られるようになる(天満宮史料10)元弘3年5月26日尊良親王は「大宰府原山」に拠り諸族を招集し,中村氏・宮野氏・荒木氏・相良氏などが来府した(広瀬文書・上妻文書・近藤文書・相良文書/同前)建武3年大宰府に入った足利尊氏は一色頼行を遣わして豊後玖珠城を攻めており,同年12月20日の野上顕直軍忠状に「自太宰府大将御共仕」とある(野上文書/同前11)南北朝期,観応元年6月5日,安楽寺和歌所にあてた鎮西管領一色範氏の寄進状(大鳥居文書/同前11)には,「太宰府原山」で厳重の瑞夢を被ったことにより寄進したという旨が述べられている正平18年11月28日,沙弥某は観世音寺戒壇院で受戒するが,その戒牒(太宰府天満宮文書/同前12)には「大宰府観世音寺戒壇院」とある文書上では中世を通じて大宰府・太宰府・宰府が混用されており,応安6年9月21日の九州探題今川貞世書下によれば府中とも称されたことがうかがえる(同前)室町期,朝鮮の申叔舟の「海東諸国紀」には「小二殿居宰府,或称大都督,府西北去博多三里,民居二千二百余戸」とあり,15世紀に宰府には2,200余戸があったと記録されている文明12年9月17日に太宰府天満宮に詣でた連歌師宗祇は「筑紫道記」に「宰府聖廟へまゐる」と記し,天正15年4月26日,豊臣秀吉の九州陣を見舞うため西下し同宮に参詣した細川幽斎は「九州道の記」に「宰府は天神の住み給ひし所」また「誠に西都とも云ふべき所」と書き留めている文禄元年正月5日に同宮に参った木下勝俊の「九州のみちの記」にも「菅原の大臣住み給ひし宰府という所や」と見え,紀行文から宰府参りの様子がうかがえる(以上,群書18)天正15年12月7日に太宰府天満宮領を打渡した小早川隆景天満宮領打渡状案には宰府町の名が見え,「一田数六町五段 三笠郡之内 宰府町分」「畠地壱町九段 同」「屋敷拾八ケ所 同町分」とある(満盛院文書/博多史料8)なお,その後天正18年と考えられる2月24日に重信から大鳥居市正に宛てた天満宮御領打渡坪付注文には,宰府町分坪付として「しへい分」「ひらい分」「宇佐分」と見え(太宰府天満宮文書/同前),慶長4年6月27日の小早川秀秋寄進状(大鳥居文書/同前)では,「筑前三笠郡宰府村之内」とある鎌倉期以降,大宰府の政治的実効性が失われるにつれ府下の市町は太宰府天満宮を中心とする社頭の門前町の方へと東に移っていったものと推定され,天正年間には同宮の社頭の地およびその周辺の地が宰府という地名で限定されるようになったなお,大宰府の中心をなした官衙跡は太宰府市観世音寺字大裏に所在する一般に「都府楼跡」と呼ばれ,国特別史跡政庁跡は東西に横たわる四王寺山脈の南側麓の平地に在り,東と西には月山と蔵司と呼ばれる四王寺山から派生した小丘陵に挟まれ,南には東西に貫流する御笠川がある昭和43年から継続的に発掘調査が実施されており,政庁跡については3期に及ぶ遺構が確認されている第1期は掘立柱建物によるもので,遅くとも7世紀後半には造営されていたと考えられるが,全体的な建物配置や規模などについては不明第2期・第3期はいわゆる朝堂院形式とよばれる建物配置で東西111m・南北211mの範囲に南門・中門・脇殿・正殿・後殿などの建物が配置されている第2期の造営年代は8世紀前半代で,第3期は藤原純友の乱による罹災後間もない頃に造られたと考えられている第2期から第3期に建て替えられた際,南門や回廊に若干の規模の縮小や拡大がみられるが,全体の規模としてはほぼ同じである政庁の建物は都においての朝堂院・内裏にあたるもので,正殿は大極殿に相当する朝堂院は天皇即位の儀式や正月節会などの国家的儀式が行われた場所であるが,大宰府の政庁は,当時の主要な任務が外交・交易にあったので,主に中国や朝鮮からの使節の応接の場として使用されたと考えられるまた正殿後方の内裏にあたる一画は出土した木簡から,ある時期には日常執務の場として使用された可能性がある政庁の周辺には日常執務をする諸官衙があったが,これらの官衙を含めた範囲(庁域)は,これまで方4町と考えられていたが,最近の調査結果では官衙の建物跡が検出されており,その範囲はさらに拡がる可能性が指摘されるに至っている出土した遺物は瓦類・土器(土師器・須恵器)・陶磁器(緑釉・灰釉・輸入陶磁器)など膨大な量にのぼるとくに,大陸・半島と近い距離にあり,外交・交易を主任務としたこともあり,輸入陶磁器の出土量は他に類をみない大宰府の特徴とも言えるこれらの出土遺物は九州歴史資料館に展示・保管されているまた政庁の遺構は環境整備により平面復原されている福岡県教育委員会・九州歴史資料館によって,昭和43年から各年次ごとに継続的に「大宰府史跡調査概報」として刊行されている




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7441339