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上吉田村(近世)


江戸期の村名藤津郡のうち東・西・南部は山地,北部は平地に連なる東吉田・西吉田・下吉田の地名に対し,吉田川の上流に位置するために起こった地名山地の全部と平地の一部は蓮池【はすのいけ】藩領,残余は佐賀本藩領「宝暦郷村帳」では小村に納戸新村・寺辺村・峰村・川内村・岩ノ下村・赤瀬村・春日村が見え,「天明郷村帳」では,これらのほかに下吉田村・松尾村・志川内村が小村として見える「慶長国絵図」に村高1,423石余と見えるが,下吉田・東嬉野【ひがしうれしの】・西嬉野・塩田郷鍋野・美濃を含む「正保国絵図」「元禄国絵図」では吉田郷は上・東・西吉田村,春日村に分かれ,上吉田とともに石高1,018石余「天明村々目録」も同高,「天保郷帳」では1,188石余,「旧高旧領」には見えない給人・地米高は「玄梁院様配分帳」では,鍋島伝兵衛587石余,「大小配分石高帳」では鍋島隼人319石余文久3年の「上吉田村田畑竈数人別帳」によると田53町7反余・地米高382石余,畑33町7反余・地米高15石余,屋敷3町9反余・地米高31石余,畔方9町9反余・地米高9斗余,屋敷数223か所,組数45,男554人,女548人,老人132人,幼少347人,馬28,職業は農業567人・大工4人・大鋸8人・城下奉公3人・居村奉公23人(男12人・女11人)・日料取6人・瞽女5人・山伏2人・ほか5人曹洞宗聖福山永寿寺は慶長19年鍋島伝兵衛茂教の開基,代々伝兵衛一族の菩提寺で歴代の墓がある同寺の木造不動明王・二童子像は両岩【もろいわ】の真言宗永洗寺(廃寺)から移したもので当地方唯一の平安期の遺物用水は吉田川の井堰から疎水で引いたが本藩領・蓮池藩領に分かれ,かつ両岩には鹿島藩領もあり,水利慣行が複雑であった(嬉野町史)吉田峰番所には侍1人が常駐し,山林を支配し陶磁器の持出しを監視した宝歴2年白岩【しらいわ】で陶磁器を焼いたが,本藩領であったため蓮池領の吉田皿山よりも陶土の支給で優遇をうけた「明治7年取調帳」では吉田村の枝村として見える




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7444979