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球磨荘(中世)


鎌倉期に見える荘園名球磨郡のうち弘安6年7月3日の関東下知状案(平川文書/県史料中世3)に引用された建久3年8月の下文に「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職事」と見え,「三善」はのちの永吉荘,「西村」はのちの須恵荘にあたるまた寿永3年4月5日の池大納言(平頼盛)家沙汰荘々注文案(久我家文書)に「球磨臼間野庄〈肥後〉」,寛喜元年6月日の円性(平光盛)処分状(同前)に「一,五女 冷泉局……肥後国球磨人吉荘〈同(蓮花王院)領〉」と見える平安末期には,半不輸で一郡的広がりをもつ球磨荘が成立しており,「球磨臼間野庄」はその一部と推定され,文治年間に球磨郡内に関東御領を設定した際,建久8年閏6月日の肥後国田数領主等目録写(相良家文書/大日古5‐1)に見られるように,当荘を再編片寄せして人吉荘を立荘したと考えられる(熊本大学文学会文学部論叢1)前記の「球磨人吉庄」はその名残を残したもので,再編後の人吉荘にあたると推定される延応2年6月日の八条院(暲子内親王)政所下文(願成寺文書/県史料中世3)に「下 球磨御庄 可早引募相良三郎永頼入道申請願成寺免田伍町事」,寛元4年2月日の同下文案(同前)にも「下 球磨庄官等所 可為早任地頭沙弥蓮仏(相良長頼)申請,本田内伍町願成寺免田事」と見え,領家八条院方では人吉荘のことを依然として球磨荘と呼称していたなお,天正十六年参宮帳(大分県史料25)に「〈天正十八年三月八日〉肥後求麻庄原田しゆ三人」とある




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7451387