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南之関(中世)


 鎌倉期から見える地名。玉名郡のうち。元亨元年3月3日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇文書/大日古13-2)に,肥後国中の初米進納の所々の1つとして「一所ミなミのせき」とあるのが初見。戦国期の「紹剣日記」には「一,天正九年辛巳四月,肥前竜造寺肥後南之関ニ着陣,同十三日,隈部ニ寄」とあり,竜造寺隆信は当地から肥後国へ侵入しており,当地は筑後国三池郡と境を接する交通の要衝であった(旧記雑録後編1)。天正15年の豊臣秀吉の九州侵攻に際しては,当地が拠点となり,天正15年と推定される卯月2日付の小早川秀秋宛の豊臣秀吉朱印状(小早川文書/県史料中世5)には「去月十六日書状今日於聚楽遂披見候,肥後表差越人数付,如被仰出,南関在陣旨聞召候」と見える。また同年と推定される年未詳卯月15日付の小早川秀秋宛の豊臣秀吉朱印状(小早川家文書/大日古11‐1)にも「筑前国大熊……肥後国三池・小代・南関・山鹿……宇土,其外城々,或聞北,或命之御侘言申,明渡候」とあり,豊臣秀吉の熊本への移座が伝えられている。秀吉は帰路も当地を通過しており,島津貫明の「天正十五年〈自六月十五日至七月十日〉日々記」6月23日条に「南関を夜明方ニ御打立,高良山へ申刻御着也」とある(旧記雑録後編2)。なお,弘治2年と推定される年未詳11月19日付の大友義鎮領地預ケ状(大友家文書録/県史料中世5)に見える「肥後国玉名郡之内小原遠江入道跡関四拾五町之内三町分之事」も当地のことと思われる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7453269