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儀間村(近世)


王府時代~明治36年の村名島尻方,はじめ真和志【まわし】間切,康熙12年(1673)からは小禄【おろく】間切のうち方言ではヂーマという沖縄本島,那覇【なは】港南岸に位置する「高究帳」では真和志間切儀間村と見え,高頭108石余うち田52石余・畑56石余地形は,小禄台地北縁の標高50m以下の丘陵を含み,台地下の海岸低地に村落が形成されたこの丘陵は小禄台地の端の石灰岩堤で,ほぼ東西2kmにわたり,その形から中国人や久米村の人々は筆架山ととなえ,地元では殿ノ山またはガジャンビラと呼ぶガジャンビラは本来は,小禄台地へ登る坂道の名である石灰岩堤下の崖の東にはウティンダ(落平)という湧泉がある山下町第1洞穴遺跡があり,洪積世時代の人骨が発見された中世以降,台地下の海岸低地の陸化が進行すると,そこを開いて農村が形成されたヂーマとは,海浜に新しく陸化した低地を指す地形地名らしく,同名の地名が各地にある15世紀初頭,島添大里按司下之世主に攻められて自刎した麻姓1世大城按司真武の子真宗が,玉城【たまぐすく】間切垣花村から当地の下田原に逃げ,やがて垣花村の住民が移り住んで,一帯を垣花と通称するようになり(麻姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7),「かきのはなち」とも呼ばれた当地にはじめて移り住んだ麻姓2世真宗については未詳だが,3世真福・4世真孟・5世真命は,遣明使節の一員として2~3回ずつ渡航したことが,「歴代宝案」「麻姓大宗家譜」などに見え,田名家文書1・3号にその辞令書が残り,同5・6号には「きまのかなくすく」「きま」と見える(県文化財調査報告書18)屋良座森城の築造は,4世真孟が儀間地頭となった翌年の嘉靖30年から始まった真孟の母は,儀間大あむしられの神職にあり,屋良座森城の巨石は彼女の怪力で運ばれたと伝える同32年屋良座森城は完成し,翌年の「やらさもりくすくの碑」では「やらさもりくすくのかくこ,又ねたてひかわのミつのかくこハ,三人おろくの大やくもい,きまの大やくもい,かなくすくの大やくもい,いつきやめむちよくかたくかくこすへし」と,屋良座森城と音立て樋川(落平)の格護を命じている(県文化財調査報告書69)落平などの湧水は,この頃からすでに船舶用の給水源として重要な存在であった5世真命は,那覇江口の鏡地にある洞穴の聖所に,正観音像を奉安したという(麻氏玉城大城由来記)当地の御嶽は,筆架山の東の頂にあり,神名をコセラノ御イベという(由来記)これを伝承では儀間の殿といい,落平の近くに当たるこの拝所は,北側から拝むように仕立ててあるまた,「由来記」によれば辻森があり,儀間の海岸の住吉森にある頂毛という御嶽に当たり,住民は海を背にして南東方を拝んだ頂毛は尖頭の岩であったらしいこれらはすべて祖先の地である大城村を遥拝する形をとっている玉城城内には雨粒天次【あまつづてんつぎ】という御嶽があり,とがった岩が拝まれていて,これを玉城やら森ともいう所伝では大城城内にも同様の岩が拝まれていて大城やら森といった麻氏の伝承に,「那覇やらざ森は,大城やら森の移り名大城やら森は玉城やら森の移り名なりと伝えこれあり候天城やら森は天辻の旧名なり」という(麻氏玉城大城由来記)「由来記」大里間切大城村の項にある大城城内の城内ノヤラザ嶽もこれに関係する「やらさもりくすくの碑」の冒頭に「琉球国中山王……のミ御ミ事,国のようしとまりのかくこのために,やらさもりのほかにくすくつませて」とあり,屋良座森城はこの詔勅のままに築かれた屋良座森城の名称は,その内にあるヤラザ森にちなんだもので,その森は住吉森に当たる住吉森は「由来記」に見える辻森で,拝む対象はとがった岩であり,これが那覇のやらざ森であった那覇のやらざ森は大城やらざ森に,それはまた玉城城内のやらざ森(雨粒天次)に結びつくこういった縁由のある住吉森の小丘を腰当にして,垣花が生まれ,儀間村が形成されていったと考えられる「儀間」の字は,順治17年(1660)の田名家文書16号に「儀間し」と見え,またその前年の住吉宮棟文にも「村司儀間親雲上宗重」とある天啓7年(1627)の田名家文書12号に「真和志間切きま村より知行高三拾石ハ南風のこおりの一人きまの大やくもいに給申候」とあり(県文化財調査報告書18),この時の「きまの大やくもい」は麻氏6世儀間真常のことである儀間真常は,野国総官のもたらしたサツマイモを広め,後世の全琉球の食糧事情を安定させた野国総官への報恩祭を,儀間村赤平で行っていた(麻姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)さらに万暦37年(1609)には尚寧王とともに薩摩にのぼって木綿種子を持ち帰り,小禄・豊見城【とみぐすく】・垣花三村といわれるほどの琉球絣の一大産地としたまた天啓3年には,儀間村民を中国福建省に遣わして製糖法を学ばせ,糖業を国中第一の産業にまで発展させた住吉森の住吉神社も儀間真常が薩摩から勧請したといわれる住吉神社は,順治16年麻氏8世真時が儀間宗重の名で重修して棟文を掲げ,康煕35年には拝殿が建立された(球陽附巻尚質王12年条)彼はまた袋中上人に帰依して,垣花浄土の中心人物となり,永く住民の尊敬を受けている康煕12年小禄間切新設後,湖城【こぐすく】村を分村した小禄間切は王家直領の三間切ではなく田舎間切であった田舎間切に地頭家が居住することは許されないので,地頭家麻氏は首里へ移住しなければならなかったそこで,長男の9世真代は屋敷・家財を受け継いでこの地に居住し,地頭職は次男の真周に相続させた真周は,唐芋と呼ばれる黄蕃藷を中国から取り寄せたが,波照間高康もまた黄蕃藷を持ち帰り,一時この地に植え,のち八重山へ伝えたといわれるその後,麻氏10世真房は,康煕51年に儀間地頭から兼城【かねぐすく】間切武富【たけとみ】地頭となった彼は,尚敬王冊封に際して,康煕54年に屋良座森城の修理奉行となっている以後の地頭は,久米村の蔡氏儀間家となる近世には,織物や漁業が盛んに行われ,士族も居住して屋取のようにもなっていた「中山伝信録」には,儀間山の下に垣花村があるとして,「村中米廩多シ」といっている船頭・水主になる者も多く,対岸の渡地【わたんじ】との間に渡舟を設け,島尻方面への門戸となっていたまたスラ場(造船所)が海中の砂州にあって,大船の建造・修補が行われた麻氏は大船の建造にも功績をあげているスラ場の一画にあるキンベーモー(君南風毛)は墓所ともいわれた住吉森は月の名所として謡われ,冊封副使李鼎元のいう鶴頭山に当たるか拝所には,儀間ノ嶽・辻森・ヤラザ森・ヤヘザ森・儀間ノロ火の神・儀間之殿があり,儀間ノロの祭祀(由来記)儀間ノロは,金城【かねぐすく】村・湖城村の祭祀も管掌した(同前)儀間之殿は,村北方の岡の上にあり,火の神の前はそこから移したものといわれる儀間之殿は背後(北方)から拝むようになっていた今日でも金城の方からは,儀間村の火の神へお通しする形の拝所がある明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属同13年の戸数341・人口1,649うち男834・女815(県史20)同15年スラ場跡に沖縄監獄舎が建てられ,同16年君南風毛から渡地へ90mの明治橋が架けられたが,橋脚が弱く長持ちはしなかったそのため同36年には南明治橋・北明治橋が湖城に架けられた明治20年代スラ場付近から落平にかけての海浜が埋め立てられた同36年鏡水【かがみず】村・那覇区垣花の各一部となる

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464221