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山内荘(中世)


鎌倉期~戦国期に見える荘園名相模国鎌倉郡のうち史料上には単に「山内」と見えることも多く,当荘の一部である鎌倉市山内のみを指す場合としばしば混用される「吾妻鏡」治承4年10月23日条に「又滝口三郎経俊召放山内庄,被召預実平」と見え,この日源頼朝は相模国府で勲功賞を行い,石橋山合戦で大庭景親についた山内首藤経俊から当荘を召し上げ,その身を土肥実平に召し預けたこの山内首藤氏は当荘の開発領主で,「那須系図」の藤原通家の項に「相州鎌倉郡山内開発之領主也,長暦二年四月八日卒」とあるが(続群6上),「山内首藤系図」の通家の玄孫俊通(上述の経俊の父)の項に「然者今俊通始居住相模山内,以其地為家名」とあり(続群6上),「山内広通差出同氏略系」俊通の項にも「居相州鎌倉郡山内庄,因為氏,平治元年己卯十二月廿八日〈按廿七日〉従左馬頭義朝戦死」とあることなどから(山内首藤文書/大日古),当荘は12世紀初め頃に開発されたものと推定される山内首藤氏は,摂関家に伺候し,鳥羽院の北面の武士となるなど京都との関係が深く,主馬寮や滝口の武士になった者がいたところから,山内首藤あるいは山内首藤滝口を名乗りとするようになった一方,清和源氏との関係も深く,累代にわたって乳母関係を結び,家人と称すべき存在であり,前九年・後三年の両役,保元の乱を通じてその活躍がみられるが,平治の乱では源義朝について俊通・俊綱父子が戦死した(陸奥話記・保元物語・平治物語)この間,山内首藤氏は下司職を留保して当荘を皇室に寄進しているが,皇室領として立荘された時期は判然とせず,また本所についても八条院説(荘園史の研究)・後白河院説(日本中世政治史研究)・八条院から後白河院への伝領説(鎌倉市史総説編)の3説があるこのうち,八条院領説の根拠となった「吾妻鏡」文治4年6月4日条所収の5月12日の権右中弁藤原定長奉書を子細に検討した後白河院領説が有力と思われる「延慶本平家物語」所収の元暦元年3月7日の前大蔵卿高階泰経奉書は検討を要する史料であるが,その文言中に「縦雖非平家知行之地,東国御領山内庄以下便宜之御領,随被申請,可有御下文」とあるのは,当荘が平家の所領ではなく後白河院領でありながら,本所後白河院の関知しないうちに源頼朝は当荘の下司職を山内首藤経俊から没収して土肥実平に与えたことを追認したと考えられる以降,建久2年10月日の長講堂領注文に「不所課庄々……山内」(島田文書/県史資1‐217),元仁元年頃と推定される年月日未詳の宣陽門院所領目録に「雖有御領号不済年貢所々,相模国山内庄」(同前302),さらには応永14年3月日の宣陽門院領目録写にも「雖有御領号不済年貢所々,相模国山内庄」(集/県史資3上‐5395)などとあり,目録上では長講堂領として後白河上皇からその皇女宣陽門院を経て後深草上皇から持明院統に伝領されているが,実際は将軍直轄の関東御領となっていたものと思われるなお建暦3年2月日の慈鎮和尚所領譲状には「常寿院……山内庄」と延暦寺の塔頭常寿院領として記載されているが,この文書の末尾に「於常寿院者,雖無別当,只申院宣御沙汰,不可有其難候也」とあり(古文書集/同前1‐277),後鳥羽上皇との関連がうかがわれ,皇室を上級の領主として常寿院も何らかの得分権を有していたものと推定される(県史研究11)「吾妻鏡」治承4年10月9日条によると,鎌倉に入った源頼朝は,正暦年間に建てられたという「知家事〈兼道〉山内宅」を移築して当座の住居としているが,この「山内宅」の所在については未詳建久3年3月20日,源頼朝は後白河法皇追福のため「山内」で100日間の温室を設け,往来の諸人や土民を入浴させており,当時武蔵方面から当荘を通って鎌倉に向かう旅人が多かったことが推測される(吾妻鏡)また当荘は,将軍や御家人たちの散策の地であったことが「吾妻鏡」の記事からわかる建仁2年12月19日,将軍源頼家は鷹場見物のため「山内庄」に出御しており,建保元年5月2日には,京より下っていた一条能氏・藤原範高が納涼の地を求めて散策していたところ,和田義盛の乱が勃発したためしばらく当地にとどまってから将軍源実朝のいる法華堂に参向しているまた建保4年5月24日には将軍源実朝が「山内辺」を歴覧し,暦仁元年12月12日には執権北条経時が大雪の降ったあと「山内辺」を遥して狩りをしていることなどが知られる「吾妻鏡」建保元年5月7日条には,「相模国山内庄〈相州〉」とあり,和田義盛の乱の勲功賞として北条義時に与えられているが,これは当荘の下司職(あるいは地頭職)であったと推定されるこれ以前の下司職については,土肥実平~惟平説,和田義盛説があるが,「吾妻鏡」建保元年5月6日条に見える和田義盛方として討死した「山内人々」の中に「土肥左衛門太郎・同次郎」が見え,同書閏9月19日条で土肥惟平が義盛与党として処刑されていることなどから前者の説が正しいものと思われる(日本中世政治史研究・県史研究11)以降,南北朝期と推定される年月日未詳の正続院雑掌申状事書案に「山内庄者於得宗領,為闕所之随一之間,頭殿御領也」とあるように(円覚寺文書/県史資3上‐3438),鎌倉幕府滅亡まで得宗領となっていたことが知られる疫病が流行したため幕府は,元仁元年12月26日「四角四境鬼気祭」を行っているが,四境の1つに「北 山内」とあり,当荘の山内が鎌倉の北境に位置していたことがわかる(吾妻鏡)嘉禎元年12月20日の将軍藤原頼経病気平癒のための「四角四境祭」では「小袋坂」となっていた(同前)仁治元年10月10日,北条泰時亭で,安東光成を奉行として「山内道路」を造る沙汰が行われているが(同前),これは「小袋坂」の切通しのことで,これまで仮粧坂を経由していたのに比べると大変便利になった建長2年6月3日にも北条時頼が「山内并六浦等道路」を修理させており(同前),北条氏が当荘内山内(現鎌倉市山ノ内)を重視していたことが知られるなおこの山内には北条氏得宗家の代々の別宅があり,「吾妻鏡」仁治2年12月30日条には北条泰時の「山内巨福礼別居」,正嘉2年6月11日条には時頼の「山内最明寺御亭」,正嘉元年6月23日条には時宗の「山内泉亭」などが見えるまた,得宗被官の居宅もあり,「山内ひとうのやつ」の尾藤左衛門入道の家地や(田中文書/県史資1‐504),「建治三年日記」12月27日条から平頼綱の「山内屋形」の存在も知られる(続大成)建長5年11月29日,得宗被官諏訪兵衛入道蓮仏は北条泰時追福のために「山内」に一堂を建立しているが(吾妻鏡),以降建長寺・円覚寺など北条氏ゆかりの禅宗寺院がつぎつぎと建立されて開発が進んだ延慶2年正月14日の建長寺直歳書下には「建長寺門前地事,合廿四坪〈法円跡〉」「建長寺門前地事,合十二坪〈西得跡〉」などと見え,屋地に坪の制が行われており(円覚寺文書/県史資2‐1772・1773),当時山内荘内の他の諸郷とは分離して鎌倉のうちに包含されていたものと推定される上述したように,当荘は関東御領であり,下司職(あるいは地頭職)は北条氏の得宗家領であったが,荘内には鎌倉の寺社に寄進された郷や地頭が置かれた郷もあった鎌倉期に見える郷名としては,岩瀬郷・倉田郷・吉田郷・本郷・舞岡郷など,それ以降に見えるものとして,秋庭郷信濃村・那瀬村,富塚【とつか】郷,山崎郷があるそのほか,当荘内と推定されるものに矢部郷・深沢郷(南・北深沢郷)・長尾郷・公田【くでん】・小袋(巨福礼)などがある岩瀬郷は,仁治元年3月7日北条泰時によって,同荘内倉田郷の替として新阿弥陀堂(証菩提寺)に寄進された(相文/鎌遺5603)しかし,得宗被官と推定される岩瀬郷の給主奥田盛忠が正和2年以来の年貢を未進したため,文保元年12月14日北条氏公文所は証菩提寺に年貢を究済するよう命じている(相文5)下って南北朝期の正平7年正月10日,足利尊氏は勲功の賞として岩瀬郷を島津忠雅に宛行ったが(源姓越前島津正統家譜/県史資3上‐4125),永徳3年12月11日の足利氏満書状には「明月庵領相模国山内庄岩瀬郷事」とあり,明月院領となっている(明月院文書/同前4941)倉田郷は,仁治元年頃までは,新阿弥陀堂(証菩提寺)領で(相文/鎌遺5603),文和3年には島津忠兼の所領となっている(源姓越前島津正統家譜/県史資3上‐4258・4259)吉田郷は同郷の一部が永仁3年閏2月25日および嘉元4年9月27日に北条時宗室や北条貞時によって円覚寺に寄進されている(円覚寺文書/同前2‐1543・1991)下って南北朝期の正平6年12月25日に足利尊氏が吉田郷を鶴岡八幡宮に寄進した(鶴岡八幡宮文書/同前3上‐4117)本郷は文保元年12月14日の北条氏執事連署下知状に「山内庄本郷新阿弥陀堂」と見え,郷内に建久8年源頼朝が石橋山合戦で戦死した佐那田余一義忠の菩提を弔うため建立した新阿弥陀堂があったことが知られる(証菩提寺文書/相文5)下って長禄3年12月日の高帥長本領注文には「一,相模国 山内庄政所職并本郷」と見え,勲功賞として賜ったことが記されている(蜷川文書/県史資3下‐6270)舞岡郷については,和田義盛の乱の際和田方についた土屋義清の子義則が「舞岡兵衛」と名乗っており,舞岡郷とのかかわりが推察される(土屋系図/奥山荘史料集)その後,延慶2年2月23日,得宗被官である南条時光は嫡子時忠に「さがミの国山内庄まいおかのかう」にある屋敷2所と給田1町3反120歩などを譲っている(大石寺文書/県史資2‐1730)秋庭郷には信濃村・那瀬村の両村があったことが知られる信濃村は,鎌倉期には鎌倉北条氏の一族名越氏の菩提寺である長福寺領であったが,鎌倉幕府滅亡の混乱の中で建武元年8月29日新しく当荘の領主となった足利直義が建長寺(建武2年からは円覚寺)の塔頭正続院に寄進したため相論がおきている(円覚寺文書/県史資3上‐3438)これによると,秋庭郷の新領主は上杉重能であり,結局長福寺には替地が与えられ,信濃村は正続院領となった(同前3749)一方那瀬村は,応永元年12月25日に上杉能俊によって報国寺に寄進されている(報国寺文書/県史資3上‐5120)富塚郷については,郷内に鶴岡八幡宮供僧の供料田や本料田があり(鶴岡八幡宮供僧次第/続群4下・34),暦応3年4月16日には,足利義詮が郷内の大泉八郎跡を新熊野山に寄進している(松雲公採集遺編類纂/県史資3上‐3478)山崎郷は,康正3年2月日の今川範忠禁制には「円覚寺之内黄梅院領於相州山崎村」と村名で見えるが(黄梅院文書/同前3下‐6112),享徳6年4月13日の古河公方足利成氏証判黄梅院知行注文には「相州 山内庄山碕郷」と郷名で見え,黄梅院領だったことが知られる(同前6247)この他,建久3年10月21日に和田宗実は荘内南深沢郷の地頭職に補任されており(中条家文書/県史資1‐229),元久2年2月22日,宗実から高井重茂に譲られ(同前260),仁治2年4月17日には重茂後家津村尼から子の時茂に同郷内の津村屋敷などが譲られ(同前351),「つむらの田さいけ」は時茂―茂連―茂貞……茂資―政資―寒資―房資と嫡子相続の地として相伝されている(中条家文書・三浦和田中条家文書/県史資1‐833,2‐842・1052・1207,3上‐5444,3下‐6171)また弘安7年9月9日得宗北条時宗は「小福礼中山上散在小畠等」を円覚寺の菜園として寄進している(円覚寺文書/県史資2‐980)元弘3年5月の新田義貞の鎌倉攻めの際には当荘は激戦地となった5月16日分倍河原の戦いに敗れた北条泰家は一旦「山内」まで退き,同18日の晩には洲崎が敗れて義貞軍は当荘内の山内まで侵入(太平記),この時北条守時は「山内離山」で自害した(将軍執権次第/群書4)翌19日には金沢貞将が「山内ノ合戦」で敗れ東勝寺に退き,同22日には長崎高重が山内で奮戦し,東勝寺へ帰って自害している(太平記)鎌倉幕府滅亡後の元弘3年11月24日,上杉重能は御所の修理料足を得るため「岩瀬郷」を2年を限って100貫文で売却,2年間の得分が260貫文に達しなかった場合は不足分だけ年紀を延長するという条件がついていた(金沢文庫古文書/県史資2‐3127)幕府滅亡後当荘は足利直義の所領となったが(円覚寺文書/同前3上‐3438),建武2年7月27日北条時行が鎌倉に侵入した際(中先代の乱),直義は「山ノ内」を通って逃れている(太平記)当荘内には多くの郷があったが,鎌倉中・後期頃からは,1つの荘園としての機能は失われ,各郷の独自性が強くなっていたものと思われるなお「関東合戦記」および「北条記」には,「同(永享12年)四月六日,伊豆国を立ち,山内の荘に帰参り,長尾郷に令滞留,同五月十一日神奈川へ出勢ある」と見え,永享12年の結城合戦の際伊豆にいた上杉憲実は当荘を通過している(続群21上)現在の鎌倉市山ノ内および横浜市戸塚区上郷町・公田町・鍛冶ケ谷町・小菅ケ谷町・桂町(中世の山内本郷)を中心として,同市港南区の一部を含む広範な地域に比定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7615904