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泉荘(中世)


鎌倉期~室町期に見える荘園名山鹿郡のうち菊池川の支流内田川の流域一帯に位置し,現在の菊鹿町および鹿本町北東部に比定される荘名は荘内各地に清泉が湧くことに由来するという荘域のうち高橋・津袋など南部一帯を本荘,内田・相良など北部地域を新荘という本荘の中心は,高橋八幡宮が鎮座し,有福寺跡に鎌倉期の巨大な五輪塔が残る現鹿本町高橋であったとみられ,泉本荘を高橋荘ともいう荘名の初見は鎌倉初期と推定される宇佐弥勒寺喜多院所領注文(石清水文書/大日古4-2)で,野原荘(現荒尾市)・守山荘(現小川町)・藤崎宮(現熊本市)とともに「泉庄」が見える平安末期以来弥勒寺は石清水八幡宮寺検校の管領下にあり,承久2年12月10日の大善法寺祐清譲状(同前/大日古4-6)には「弥勒寺領 泉本庄〈肥後国〉」とあり,すでに本・新両荘の区別があった寛元元年12月23日の関東下知状(相良家文書/大日古5-1)には,「肥後国泉新庄内山井名事」とあり,相良頼重が「件名者祖父頼景法師所領也,親父宗頼譲得四十余年知行」と主張している山井は,江戸期の下内田村の小村にその名を残す弘長3年6月26日の武藤資能請文(石清水文書/大日古4-6)に「八幡宮領肥後国高橋庄」と見え,先の関東下知状には「宗頼勲功之所領高橋村」とあるから,相良氏はまず泉新荘山井名の名主職を得,次いで本荘を獲得したものとみられるやや問題があるが,覚書風の鎌倉期と推定される年月日未詳の肥後国山北西安寺石堂碑文(相良家文書/大日古5-1)には「二男(宗頼)〈一丁〉山井村〈百丁〉高橋村」とあるこの宗頼―頼重の系統が山井相良氏,のちの内田相良氏である前記の寛元元年の関東下知状によれば,嘉禄3年宗頼の死後まもなく頼重と相良氏惣領蓮仏(長頼)の間に,山井名と高橋村をめぐる相論が起こった頼重が兄頼元の妻を密懐し兄弟不和となったとして,蓮仏が代官を派遣して相論になった蓮仏の主張は退けられたが,頼重も山井名半分を奪われた鎌倉中期になると相良氏の荘務押妨・年貢抑留が始まり,前記の弘長3年の武藤資能請文によれば,弘長年間預所好秋は相良公頼・頼泰兄弟らの非法を訴え,下地中分を要求した訴訟は大宰少弐武藤資能が仲介する形でなされたが,相良氏の非法を押さえることはできず,荘園領主側の支配は弱体化していったなお,仁治3年9月25日の家田宝清処分状(石清水文書/大日古4-6)では「弥勒寺領 泉本庄〈肥後国〉」を弟子の宮清に譲っており,「経俊卿記」正嘉元年4月17日条(図書寮叢刊)によれば,「泉本庄」に造宇佐宮役が課せられているまた文永7年3月日の善法寺宮清弥勒寺領注進抜書(石清水文書/大日古4-6)には,弥勒寺領西宝塔院家荘の1つとして「泉新庄」が見える南北朝期についてはまったく史料を欠き,15世紀後半に至り,寛正7年正月23日の菊池為邦充行状(五条家文書/纂集)および応仁2年10月10日の菊池為邦充行状(同前)によれば,当庄内の田地が守護菊池為邦によって五条良興に宛行われているのが知られるまた享禄年間と推定される菊池義宗(義武)知行坪付(津野田文書/県史料中世3)には角田右衛門尉に宛行った所領の1つに「〈泉之庄之内〉一所 三町」があり,享禄~天文年間と推定される年未詳6月30日付の鹿子木寂心(親員)書状(藤崎八旛宮文書/県史料中世3)によれば,「古庄弾正左衛門尉領地和泉庄之内寺田名」の代所として末永名を藤崎宮社家に宛行っている天文12年10月16日の肥後国内本地坪付(五条家文書/纂集)には,五条鑑量の所領として「〈泉庄内広井名〉一所 八町」「〈同庄内山口分〉一所 五町」「〈同内住吉分〉一所 五町」「〈同内小甑〉一所 十町」とあり,年月日未詳の五条家知行分坪付(同前)には,「一所 泉庄八町」と見えるまた天文21年3月1日には「同(山鹿)郡之内泉庄之内神領別府給七町分」などが薭田木工助に宛行われている(江藤文書/大友史料19)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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