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「世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる」


【名言・格言者】
坂本龍馬(幕末の志士)

【解説】
 坂本龍馬(さかもとりょうま)は、1835年、土佐藩(現高知県)に生まれました。1853年、剣術の修行で江戸に上り、佐久間象山の下で洋学を学びました。その後、同志の武市半平太が結成した土佐勤皇党に加わるも、1862年に土佐藩を脱藩して再び江戸に上りました。江戸では、勝海舟の門下生となって海軍技術の習得に努めつつ世界情勢を学び、薩長同盟の周旋(1866年)や船中八策の起草(1867年)など、国事に奔走して明治維新の成立において大きな役割を果たしました(1867年逝去)。
 冒頭の言葉は、「私は周りに理解されなくてもかまわない。自らの理想や信念は、自分自身が一番よく知っており、私はその実現に向けてまい進するだけだ」ということを表しています。
 脱藩して江戸に上った龍馬は、1862年、開明的な幕臣であった勝海舟に出会い、以後、門下生として世界情勢を学ぶこととなります。
 1853年の黒船来航以降、日本では攘夷(外国人や外国文化の排斥)運動が過熱していました。そのような中、龍馬は単純な攘夷主義に危機感を覚え、「日本の開国は避けられない。幕府を倒して開国を果たした後、新しい国家をつくりあげることこそが、日本の未来にとって必要である」と悟りました。そして、倒幕運動を進める上で、当時の二大雄藩である薩摩藩(現鹿児島県)と長州藩(現山口県)の同盟が不可欠であると考えるに至ります。
 薩摩藩と長州藩は、倒幕という方針で根底では意を同じにしつつも、それまでの政争や武力衝突が原因となり、激しい対立関係にありました。感情のもつれや面子を理由として同盟を拒む両藩の首脳に対して、龍馬は同志の中岡慎太郎と共に、藩などという些細なことにこだわらず、世界の中における日本の未来を考えることの重要性を説きました。龍馬たちの渾身の説得により1866年に薩長同盟は成立し、以降、倒幕の流れは急激に勢いを増すこととなります。
 また、龍馬は、日本初の株式会社といわれる亀山社中を設立したことでも有名です。亀山社中は、1865年に龍馬によって結成された貿易会社です。後に海援隊となる同社は、海軍でもあり研修機関でもあり、蝦夷(現北海道)などの開拓も視野に入れた多様な目的を持った組織でした。亀山社中は、英国の商人グラバーの助力を得て海外から武器の調達を行い、幕府との対立により海外から武器を調達できない長州藩へ武器を提供しました。それを通じて同藩と薩摩藩との対立関係を緩和し、前述の薩長同盟の実現において大きな役割を果たすこととなります。
 このような龍馬の行動は、当時の世間の常識からかけ離れた自由な発想によるものでした。それ故、時として他人から受け入れられず、自身の身に危険を招くこともありました。しかし、こうした行動は、いずれも、「日本の未来」という、ただ一つの目的に根ざしたものでした。
 龍馬が残したものとして知られている言葉に、

「恥といふことを打ち捨てて世のことは成る可し」

という一節があります。
 厳しい封建制度の世にありながら、龍馬は柔軟な発想と卓越した行動力によって、幕末日本において余人に代えがたい働きを成し遂げました。龍馬の、古い慣習に縛られない自由な発想と遠大な視野、そして信念を貫き通す果敢な行動力は、変革の時代に企業の舵をとる現代の経営者にとっても、欠くことができないものだといえるでしょう。
【参考文献】
「龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草」(宮地佐一郎、講談社、2003年12月)
「維新創世坂本竜馬“日本の夜明け”を疾駆した快男児」(学習研究社、2006年8月)




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「経営のヒントとなる言葉50」
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