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「難有り、有難し」


【名言・格言者】
田嶋一雄(ミノルタ株式会社創業者)

【解説】
 田嶋一雄(たじまかずお)氏は、1899年、和歌山県に生まれました。1923年に慶應義塾大学を卒業後、株式会社日本電報通信社(現株式会社電通)に入社しました。その後、実家の貿易会社に転じ、1928年にカメラメーカー・日独写真機商店を設立しました(日独写真機商店は、その後数次の社名変更を経て、1994年よりミノルタ株式会社となります。以下「ミノルタ」)。ミノルタは、1937年に発売した国産初の二眼レフ「ミノルタフレックス」をはじめとし、数々の独創性あふれる製品を生み出しました(1985年逝去)。2003年、ミノルタはコニカ株式会社と経営統合し、持株会社コニカミノルタホールディングス株式会社が発足しました。現在は、カメラ事業で培った高い技術を生かし、計測器事業・複写機事業・医療機器事業など、幅広い分野においてビジネスを展開しています。
 冒頭の言葉は、「逆境こそ、成長するための重要な糧である」ということを表しています。
 田嶋氏がカメラの製造を開始した当時、国産カメラを製造している大手メーカーは合資会社小西六本店(後のコニカ株式会社)が一社あるのみで、市場のほとんどはドイツをはじめとする欧米メーカーの製品に占められていました。
 カメラの製造に関しては素人であった田嶋氏は、自ら材料の買い付けやメッキ処理を行うなど先頭に立って開発に携わりました。そして苦心の末、1929年にミノルタの第一号機「ニフカレッテ」が完成しました。
 当初、「ニフカレッテ」は、スマートな外観が好評を得て好調でしたが、景気の後退に伴い売り上げは次第に減少し、田嶋氏は社員への賃金の支払いにも苦しむこととなりました。
 田嶋氏は大量の在庫を抱えて問屋街で営業を行いましたが、不況の折りでもあり、問屋は大幅な値引きを要請してきました。田嶋氏にとって、当座の現金はのどから手が出るほど欲しいものでした。しかし、「不当な値引きは製品の信頼低下につながる」として、田嶋氏は安易な値引きには応じませんでした。結果として、このことが、ミノルタの製品に対する問屋からのイメージ向上につながりました。
 その後、資金繰りにめどがつき、何とか窮状を乗り切ったものの、今度はともに会社を設立したドイツ人技師が独立のため突然退職するという事態に遭遇することとなりました。田嶋氏は、技術面においてドイツ人技師を頼みの綱としていたため、退職は会社にとって大きなダメージでしたが、田嶋氏はこれを機会として工場の生産体制を大幅に一新し、技術を組織として共有できる仕組みづくりに取り組みました。このことにより、社内の組織が確固たるものとなり、社員のモチベーションは大きく向上しました。
 さらに、第二次世界大戦後、ミノルタは国内から海外へと市場のシフトを図りましたが、輸出ははかばかしくありませんでした。当時の日本製品は欧米諸国の製品に比べて品質が低く、諸外国からは「安かろう、悪かろう」というイメージで見られていました。しかし、田嶋氏は粘り強い営業を続け、米国の写真薬品メーカーから要求された厳しい品質を満たし、契約を獲得することに成功しました。このことは、日本製カメラに対する諸外国の評価を大きく変えることとなりました。
 このように、ミノルタは、日本におけるカメラのパイオニアであったが故に、数々の逆境を乗り越えなくてはなりませんでした。田嶋氏は次のように述べています。

「逆境は、これをいったんハネ返すと、そのバネで良い方へ良い方へと走り出すもの」

 逆境は確かに厳しいものです。しかし、その逆境が大きければ大きいほど、それを乗り越えることにより自身は大きく成長し、さらなる高みへと上ることができるのです。
 ミノルタの社名は、「Machinery and INstruments OpticaL by TAshima(田嶋光学機器)」の英名の頭文字をとったものに由来しています。しかし、田嶋氏は、この名前に、もう一つ「稔る田」、すなわち「稔るほど頭を垂れる稲穂のように謙虚でありたい」という意味も込めています。そこには、いかなるときも謙虚でありながらも、逆境へと立ち向かう田嶋氏の姿勢が色濃く表されているといえるでしょう。
【参考文献】
「私の履歴書 経済人21」(乾豊彦、河野一之、鈴木剛、東条猛猪、田嶋一雄、三宅重光、日本経済新聞社、1986年12月)




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「経営のヒントとなる言葉50」
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