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「人間の考えることやアイディアに大差はない。実際にどこまでやるかで差がつくのだ」


【名言・格言者】
豊田英二(トヨタ自動車株式会社最高顧問)

【解説】
 豊田英二(とよだえいじ)氏は、1913年、愛知県に生まれました。1936年に東京帝国大学(現東京大学)を卒業後、従兄弟である豊田章一郎氏が設立した株式会社豊田自動織機製作所(現株式会社豊田自動織機)に入社しました。1937年、トヨタ自動車工業株式会社(以下「トヨタ自動車工業」)の設立に伴って転籍し、1950年にトヨタ自動車工業からトヨタ自動車販売株式会社が分離設立された際にはトヨタ自動車工業の常務に就任しました。その後、同社の専務、副社長を経て、1967年にトヨタ自動車工業社長に就任しました。1982年、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併してトヨタ自動車株式会社(以下「トヨタ自動車」)が設立されると会長に就任しました(現在は最高顧問)。1994年には本田宗一郎氏に次いで日本人として2人目の「米国自動車殿堂」入りを果たすなど、その功績は、自動車業界のみならず世界に広く知られています。
 冒頭の言葉は、「どんなに素晴らしいアイデアを思いついても、それを夢中になってやり抜かなくては意味がない」ということを表しています。
 1950年、戦後の材料不足による生産台数低下やデフレなどの影響から、トヨタ自動車は深刻な経営危機に直面していました。当時、渡米してフォードの工場で実習に就いていた豊田氏は、帰国後はトヨタ自動車の再生のために合理化と輸送のコストダウンに着手しました。
 豊田氏は、フォードの工場で学んだ、「物の移動に対するちょっとした工夫が人手を節約できる」ということをトヨタ自動車にも取り入れました。こうした「身の回りのちょっとした工夫を提案する」という考えは、トヨタ自動車の特徴的なシステムの一つである「創意くふう」制度(自発的に問題を探し、「現状」「カイゼン案」「効果」などを簡潔にまとめて上司に提出する制度)につながっています。以降、豊田氏は積極的にQC(品質管理)という考えをトヨタ自動車に導入するようになります。
 また、豊田氏は優れた技術者であった大野耐一氏とともに、トヨタ生産方式の確立を図りました。トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎氏は、生産効率の向上のために「ジャスト・イン・タイム(必要な物を必要なときに必要なだけ製造するシステム)」という考えを提唱していました。大野氏は、この「ジャスト・イン・タイム」を体系化し、トヨタ生産方式として確立しました。
 しかし、大野氏は徹底した合理化を図ったため、社内から反発を浴び、大野氏を批判する声は日に日に強まりました。こうした中、豊田氏はこれらの声を一切遮断し、あくまでも大野氏を支援し、トヨタ自動車の変革に努めました。トヨタ生産方式は大野氏によって確立されましたが、それは、豊田氏というよき理解者を得たことで実現したと言えるでしょう。
 豊田氏が会長に就任した際、トヨタ自動車本社には豊田氏の個室はなく、当時の社長の豊田章一郎氏との相部屋となっていました。これは「相手が何を考えているのかがすぐ分かる」「緊急の場合、会長と社長が同時に情報を受け、すぐに対応策が打ち出せる」というメリットを重視したためです。すなわち、この相部屋には「大企業の会長としての形式よりも、仕事に夢中になれる環境のほうが重要だ」という、豊田氏の考えが表れているのです。
 豊田氏は、次のように述べています。

「人は夢中になれる環境にいるのがいちばんいい。経営だって夢中になってやれば、努力とか根性なんていう恥ずかしい言葉を使わんでもええ」

 豊田氏の信念は、やがて社内にも深く根付くこととなります。そして、トヨタ自動車全社が夢中になったことにより、1980年、トヨタ自動車は年間生産台数300万台を達成しました。
 素晴らしいアイデアや理念は、夢中になって取り組んで、そして実際にやることで意義あるものとなるのです。
【参考文献】
豊田英二語録」(豊田英二研究会、小学館、1999年1月)
「私の履歴書 経済人22」」(田中文雄、宮崎輝、井上薫、菊地庄次郎、大社義規、豊田英二、日本経済新聞社、1987年1月)




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「経営のヒントとなる言葉50」
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