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「事業とは最後は浮沈をかけた勝負である」


【名言・格言者】
五島昇(元東京急行電鉄株式会社社長)

【解説】
 五島昇(ごとうのぼる)氏は、1916年、東京都に生まれました。1940年に東京帝国大学(現東京大学)を卒業後、東京芝浦電気株式会社(現株式会社東芝)に入社しました。その後、1945年に父親である五島慶太氏が社長を務めた東京急行電鉄株式会社(以下「東急電鉄」)に入社し、1954年に東急電鉄取締役社長に就任します。流通・ホテル・不動産・建設事業などからなる東急グループの総帥として強力なリーダーシップを発揮し、現在につながる企業集団をつくり上げました。また、1984年には日本商工会議所会頭に就任するなど、財界活動にも積極的に取り組みました(1989年逝去)。
 冒頭の言葉は、「経営者は、事業の生き残りをかけた問題に際しては不退転の決意をもって、持てるもののすべてをかけて立ち向かわなければならない」ということを表しています。
 1951年、当時、東急電鉄の子会社であった東映株式会社(以下「東映」)は、極度の債務超過による深刻な経営難に陥っていました。東映からの救済依頼を受けた五島慶太氏は、自宅や株式など、全財産を担保に入れて銀行に融資の交渉を行いました。もし再建に失敗すれば、五島家が破産するだけでなく、借金は孫子の代まで残ることとなります。しかし、五島慶太氏は動じることなく銀行に交渉して融資を取り付け、後に東映は見事に再建を果たすことができました。五島慶太氏は、自身の経営者としての覚悟を示すことによって、息子である五島氏に経営の厳しさを教えたのでした。
 1959年に五島慶太氏が亡くなると、五島氏は、東急グループの基本方針として、運輸・交通事業と地域開発事業に的を絞ることを宣言しました。五島慶太氏は、猛烈な勢いで事業拡大を進めましたが、そのことは東急電鉄にとって大きな負担となっていました。このため、五島氏は、伸ばすべき事業と手を引くべき事業を明確にし、伸ばすべき事業には集中的に注力し、手を引くべき事業からは迅速に撤退することを決意しました。五島氏は、東急グループの舵とりにおいて、強力なリーダーシップを発揮して明確な基本方針を示すことで、五島慶太氏亡き後のグループ全体の結束が揺らぐことを防ごうとしたのです。
 1960年、五島氏は、伊東下田電気鉄道株式会社(現伊豆急株式会社)の敷設工事を開始しました。同路線では、数多くのトンネル掘削や用地買収の難航などから工事は困難を極め、敷設に関する費用は当初の予定を大幅に上回りました。しかし、五島氏は全力で工事に当たり、わずか2年弱で完成にこぎつけました。同路線が開通したことにより、陸の孤島と呼ばれていた伊豆半島の観光開発は、以後急速に進むこととなりました。
 その一方で、五島氏は、手を引くべき事業からは果敢に撤退しました。その一つが、父親が命をかけて再建した東映でした。東映から撤退することは、映画を東急グループの中心事業にすることを願っていた父親の遺志に背くことであり、東映側は当然、大いに反対しました。しかし、五島氏は、断固として東映からの撤退に踏み切りました。映画事業は、五島氏が打ち立てた東急グループの基本方針から外れており、新しい東急グループを守るためには、東映から撤退することが避けられなかったからです。
 五島氏は、事業において大きな壁にぶつかった際の心構えとして、次のように述べています。

「危機の時は体を張ってでも事業を守らなくてはならない」

 この言葉の通り、五島氏は常に経営の第一線に立ち、体調を崩して亡くなるそのときまで、東急グループの総帥としてグループ各社をまとめ、事業を守り抜きました。
 経営者は、事業の生き残りを左右するような重大な問題に遭遇した際、非常に厳しい決断を下さなくてはならない場合があります。それは、時としてさまざまな困難を伴うものかもしれません。しかし、万難を排してでも断固とした決断を下すことこそが、経営者の最も重要な役割なのです。五島氏の言葉は、経営者の決断の厳しさと責任の重さを表すものだといえるでしょう。
【参考文献】
「私の履歴書 経済人26」(本坊豊吉、杉浦敏介、五島昇、鈴木治雄、岩谷直治、永倉三郎、日本経済新聞社、2004年6月)




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「経営のヒントとなる言葉50」
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